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哲学 philosophy
すべて形成されたものは苦しみであるというのが一切行苦であり、一切皆苦と表現すると、意味がわからなくなる。また、一切皆苦・一切行苦の苦は「ドゥッカ」であり、日本語の苦とはニュアンスが異なるので注意が必要である。普段使用する漢字の意味やイメージを元に「苦」を捉え、単純に「苦しみ」と捉えてしまうと変なふうにとらえてしまう。
一切皆苦・一切行苦

やらされている

ただ環境にやらされているだけであり「やらされて、それをこなして、それで何になるのか」という虚しさは延々と続く。
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諸法無我はパーリ語でsabbe dhammā anattāと表現される。このうち、諸法無我の法はダンマであり、それは概ね法則、理、真理を意味する。すぐに再現可能で確認可能な法則のことが真理であり、諸法無我の法はそうした「真理」を意味する。
諸法無我は複数の意味を示しており、理解しがたい。

諸法無我とアートマン
諸行無常とは、一切の形成されたものは固定的ではないという意味であり、その諸行の行は、形成作用と言う意味を持つ。よって、万物とかすべての物事という表現は間違いとは言わないが、定義が不足している。
常に生滅を繰り返す因と縁によって生ずるすべての現象を捉えること、心で印象を得るということを見逃してはならない。

諸行無常(仏教)
唯物論はあくまで観念論の対義語としての位置づけにあるものであり、神的なものを否定するというものではない。 日本では神や霊魂の否定の意味かのように捉えている愚者がいる。 そうした意味で唯物論という概念があるわけではない。 根本的に唯物論には欠陥があり、ココロというものをどう取り扱っているのかを説明できていないという根本問題があるというだけのだ。
修辞学(レトリック)は、古代アテナイの時代からある弁論・叙述の技術に関する学問で思想感情を雄弁にうまく伝達するための原理を研究する学問である。雄弁術、弁論術、説得術とも呼ばれることがある。こうした修辞技法は分野間を横断して利用されていった。
修辞学と詭弁と生兵法 アリストテレスによる弁論術(修辞学)では、以下の三種類が挙げられている。 「話し手の人柄にかかっている説得」 「聞き手の状態・感情に訴える説得」 「言論そのものにかかっている説得」
ニーチェが言いたかったのはおそらく「ルサンチマンは生を否定する」という点だろう。
強者への僻みを持ちながら強者になろうという意志を否定し、堪え忍ぶことを美徳とするのはおかしいというようなことになるだろう。
ルサンチマン(ressentiment)
一時期流行った”自分探し”ってやつは、何も都合良すぎる自分を探し求めることではなくて、自分に向いている場所を見つけることだった。それには極力、”自分”ってやつを無くしていけば向いている場所も増えるっていう至って単純な話。自分をなくそうと思うと、自分を意識してしまいがちになります。何かにとらわれないでおこうと思えば思うほど力んでしまって、結局意識からは離れてくれないものです。「強いて言えば、これ」だったものがいつしかそれにばっかり気を取られて、知らぬ間に執着しているものです。それに出会った時は「どちらかといえば」レベルだったものが、知らぬ間に「これじゃなきゃ嫌だ」ということになったりしています。しかし、思い返せばそれに執着する根拠はどこにもありません。
さよなら私 さよなら私 改自分なくし 改 始めと終わり 改 ないものねだり 改 モテないが正しい 改
五蘊盛苦・五取蘊苦の五蘊(ごうん)とは、色受想行識。それぞれ色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。
五蘊盛苦・五取蘊苦の盛、取は、執著を示す。

四苦八苦のうち最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦
「老いる苦しみ」は、老いていくことを想起する苦しみであり、老いそのものよりも若さへのおごり、若き日への執著。老苦とよばれる。

老いていくことを想起する苦しみ
「現在も未来も過去の延長だろう」というのが普通の感想ではあるが、本来因果律は過去に基づいて未来が決定されているのではなく、今の意識の向きが未来を作り、それが現在にやってくる。過去の延長に思えるという印象の構造を分解すると「今の意識の向きが過去に基づいているから」という感じになり、過去に基づいているにしても、「過去のどの部分に重要性をおいているか」という配置や順番も関係している。
 
「今の意識の向き」は瞬間で変化しているが、過去のどの部分に重要性をおいているか」という状態が狭い幅である程度固定化されています。
しかし、実は「今の意識の向き」は、本来そうしたものに依存していません。もっと柔軟に変えることができる。そしてそれは観察によって変化する。
 
「今の意識の向き」として、何を観察すればよいのか?
 
それは「自我では想像もできない最高の状態を観察する」というのが正解であり、構造上、裏を返せば「自我を手放せば自動的にそちらに向く」ということになる。
常に空である全宇宙・全可能性の中はいる。ただ、今の意識の向きによって絞り込みが行われ、「心がその状態をただ受け取っている」というような感じになっている。
手放し対象となる自我とは「自分と関係しているものの集まり」であり、通常は、空である全宇宙・全可能性の中から「自分と関係しているもの」という絞り込みがなされている。そこから「自分と関係しているもの」を外し、空と統合すると、全宇宙、全可能性の中に「心」が移る。

人の尊厳と可能性

本能的なものというのは無駄がなく知性的です。

ニーチェがそんなことを言っていました。

純粋に本能的なものほど、知性を感じたりします。

「モテるために、英会話をマスターしよう」というのは、実に遠回りで音痴のような気がします。

同様に、スリムになるために食事を制限するというのも、知性的ではありません。

「今日起きたのは7時、この起きている時間で、あの時にこれだけ、さっきはこれだけ体力を消耗した、摂取した栄養素はこれこれで、なになにが不足しているが、今の所は許容値、ひとまず11時までには寝るべきだ」などとわざわざ計算せずとも眠くなって勝手に寝ます。純粋な知性

我思う故に我あり、これはコギトエルゴスムの日本訳である。



デカルトの方法序説に出てくるコギトエルゴスムの概要としては、目をなくしても、鼻をなくしても、五感を全てなくしても、結局「考えている自分」というものから「自分」というものは切り離せないというようなこと。デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していったとされる。
コギト エルゴ スム
一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明であるとする命題である。コギト命題。

形而上学的パッケージプラン

目に見えない領域のことについて、数ある可能性の中から、有名な書物を用いて確定させていくのが、世の宗教ではないでしょうか。「考えても仕方ないよ」ということで、「まあこういうことだから」という感じで、考えてしまう思考の部分を落ち着ける作用があります。方便という言葉があります。本当のことをいきなりいったところで、理解できないから、仮のたとえでひとまず落ち着けるというやり方です。本当はどうでもいいことについて、「どうでもよくない!」と躍起になっている人をひとまず落ち着かせるためのものです。その方便を本気で信じている人たちがいます。信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。

形而上学的パッケージプラン
メタフィジック(metaphysics)
非常にわかりにくいですが、五感の情報は外からの情報を感知する機能によって意図とは別に、感じてしまいます。じゃあ自分が考えているというのは外の現象に左右されていないのかというと、それもすべて外部の情報に依存してしまいます。記憶も癖も考え方のパターンも「何もないところからいきなり現れたもの」というのは考え難いと思います。教育や他とのコミュニケーションによらず、本能としてあらかじめ組み込まれていたとしても、自分が作り上げたものではありません。じゃあ「私の考え」とは、一体なんなのでしょうか。「私は考えている」というのも、もっと適切に言えば「考えさせられている」とも言えますし、「外からの情報によって自動発生している」とも言えます。かと言って、外の現象(―による情報)の出発点が「人間より上位の存在」というのは、妄想の域を出ません。

コギトエルゴスム

客観の誤謬

客観視する、というのはどう転んでも、外側で起こっていることを認識できる間口は「主観」しかありえないのに、それを自分以外のところで起こっている何かとして、「自分の中」でイメージしていることにほかならない。外で起こっていることを純粋に客観的に「存在している」と認めるのは「主観」でしかないはずで、「客観的」という属性を帯びた主観でしかないことは明白である。

時間と主観

なぜ、人を殺してはいけないか

なぜ、人をいじめてはいけないのか

という命題にまともに答えたのは大勢いるように見えて、確認できるのは実は数人しかいない。

まともに、というのは、それ以外にもたくさんこの疑問に答えようとしたものはいるが、一応の詳しい論証はしていても、前提が具体的すぎる、すなわち途中からしか考えていない、というものである。

なぜ人をいじめてはいけないのか

普通はニーチェのいうニヒリズムに関しての解説から入るところでしょうが、そんなことはしません。そんなことは検索すればすぐに出てきます。ニーチェがあ る意味でキリスト教に囚われていたように、現代の解説者はニーチェに囚われすぎています。ニヒリズムという言葉自体の発端がその辺なのである意味では仕方 ないことです。しかし、虚無というところから考えていきましょう。
ニヒリズム

ニヒリズム虚無主義とも。過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場。あらゆる存在に価値を認めない考え方。虚無主義。..物事の意義や目的といったものは存在しない、自分の存在を含めて全てが無価値とする。

ニヒリズム・虚無主義

ニヒリズム(虚無主義)は、あらゆる存在の客観的価値を否定し、宗教・道徳・権威を否定する考え方で、消極的ニヒリズムは、世捨て人のような立場であり、積極的ニヒリズムは、価値が無いのなら自分で価値を生み出そうという立場。
何をやっても何にも価値が無いのだから、消極的に受動的に生きていこうという発想、これが消極的ニヒリズム、受動的ニヒリズム。積極的ニヒリズムは、「絶対的で本質的な価値が無いなら、自分でその価値を作ってしまえ」というようなもの。虚無主義とは『物事の意義や目的は存在しない』とする考え方。意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値を認めないことで逆に、なんでもありだと考えるのが積極的ニヒリズムである。

philosophy 哲学
Dive into Myself
レトリック(修辞学)は、弁論術のようなものであるが、相手の質問の卑怯さなどを見抜くことができるようになるため、詭弁の基本を掴むことができる。



各論的に学んでいくことで「どのように卑怯なのか?」ということも理解できる。
しかしながら学ばなくても、相手の発言の構造を見抜こうとする姿勢さえあれば、自然と身につく分野でもある。

修辞学と詭弁と生兵法
仏教において苦しみや苦痛を網羅して示す四苦八苦(しくはっく)。



日常では非常に苦労することやたいへんな苦しみ、非常に苦労するといったことを意味する四苦八苦だが、本来は生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみといった「生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみで根本的な苦しみを意味する。

四苦八苦 あらゆる苦しみ
不殺生と不殺生戒(ふせつしょうかい)


仏教の戒律とは、悟りを求める修行に於いて自発的に守ろうとする戒めのこと。不殺生戒は仏教用語であり、戒律に規定されたことで、生物の生命を絶つことを禁止し不殺生戒を犯して生き物を殺すものは、僧伽では最も重い波羅夷になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。

不殺生戒(アヒンサー)


不殺生戒(アヒンサー)についてこれは一応、仏教者が守るべき五戒のうち、最も重要だとされている戒めであり、「生き物を殺してはならない」というもの「命あるものを殺すな」という不殺生とは、その様な仏の慈悲心を生活の中で実践して生きていこうとする具体的な生活規範。仏教の戒律のなかで不殺生戒(ふせつしようかい)はもっとも重いので、一般俗人も仏教の信仰に入れば、これを犯さない誓いを立てた。不殺生、不傷害はインド宗教一般の重要な思想の一つで、ヴェーダの一部をなすウパニシャッド、ジャイナ教においても不殺生戒の概念は見られた。五戒の中の不殺生戒、つまり「生き物を殺してはいけません」ということが語られていた当時、「植物は生き物ではない」というのが一般的だった。

仏教の不殺生戒


しかし仏教上の不殺生戒では大小を問わず動植物一切の生類の殺害を禁止している。仏教においても、最初期の仏教に不殺生の思想がみえ、修行者の守るべき五戒の中の重要な戒に含まれている。大乗仏教もこの不殺生を絶えず説く。中国、日本の仏教においても不殺生・不殺生戒が重要なことは疑いの余地はない。 しかし実生活で殺生をせずには生きられない。徹底して不殺生を実践したら何も食べられなくなるのになぜ、釈迦は不殺生戒を定めたのだろう?

不殺生戒
無限にある既に形成された状態と心。

無限にある既に形成された状態と心

無限の全状態は、常にあります。常に空間はそうした無限の状態の混沌です。
一般に無限といっても、自我の上ではどこかしら具体的な制限があり、その中で数量的な無限があるというような印象を受けてしまいます。そこで「ない」という概念が生まれます。しかし全状態が無限にあるのだから、「ない」というものは成り立ちません。


既にあるものと心
無主義者・ニヒリストとは、ニヒリズムに陥っている人たちのこと。ニヒリズムは、物事の意義・目的・価値存在せず、自分の存在を含めて全てが無価値であるとする立場であり、消極的ニヒリズムと積極的にニヒリズムといった概念がある。
悟りの境地としての涅槃(Nirvana)は解脱と表現されることがあるが、そう表現すると誤解を生みやすい。仏教においては煩悩を滅尽して悟りの智慧の完成の境地が涅槃であり「悟り」と呼ばれる。インド・ネパール地方の他のバラモン系の概念とは異なるので注意が必要である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
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