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哲学 philosophy
生兵法は大怪我のもとである。




修辞学や詭弁のあり方から見れば、安易なツッコミのようなものがいかに生兵法であり、論理的卑怯さを含んでいるかがよくわかる。修辞学(レトリック)・雄弁術は、誰かを説得するための技術であり、論理や事実を中心とした説得だけが有効というわけではでなく詭弁や誤謬も技術として用いられる。

修辞学(レトリック)上の詭弁


定義を曖昧にしたまま、主張を作っている形になっていて定義付けや論証という手間を相手に任せているというようなものが多い。定義と要件と効果を把握せずに主張をつくる生兵法などがよくあり、修辞学的に見れば初歩にも満たない。詭弁にすら到達していないという場合も多い。

生兵法とレトリック

詭弁は、命題の証明に誤っている論理展開が用いられている推論である。説得を目的として論理展開されるが正しいと思わせるように仕向けた話し方であるが、そうした詭弁の域にも達しない幼稚な論理展開がよく見受けられる。論理的演繹すら破綻しているようなものである。
立証責任の転嫁の構造があるような物言いが多い。 ご提示いただいた「修辞学(レトリック)の視点から見た、安易な批判(ツッコミ)の卑怯さと幼稚さ」についての洞察は、現代のコミュニケーション空間、特にSNSやネット言論において蔓延する病理を鋭く突いています。 本来、古代ギリシアにおけるソフィストたちの詭弁術は、論理の構造を熟知した上で、それを意図的にねじ曲げる「知的な曲芸」でした。しかし、現在散見される多くの批判は、そもそも論理の体を成しておらず、ただの「反応」や「拒絶」に過ぎません。 この「詭弁未満のノイズ」がいかにして議論を破壊し、知的生産性を阻害しているかについて、修辞学的な構造から解剖した続きの文章を作成しました。

知的寄生としての「安易なツッコミ」

安易なツッコミや揚げ足取りが「卑怯」である最大の理由は、そこに「非対称性(アシンメトリー)」が存在するからです。 主張を構築する側(ビルダー)は、定義を行い、前提を置き、論理を積み上げるという膨大なコストを払っています。一方で、それを破壊しようとする側(ブレイカー)は、その体系のほんの一部、例えば「言葉の定義の揺らぎ」や「例外的な事例」を一つ指摘するだけで、あたかも全体の論証を崩したかのような顔をします。 これは、建築物を建てるのには数年かかるが、ダイナマイを仕掛けるのは一瞬で済むのと似ています。修辞学的に見れば、この手のツッコミは独自の主張を持たず、相手の主張にぶら下がることでしか存在できない「寄生的な言説」です。自らはリスク(立証責任)を負わず、相手のリソースを浪費させるだけの行為は、議論ではなく妨害工作に分類されます。

「詭弁」と「論理破綻」の決定的な違い

古代の修辞学者たちは、詭弁(ソフィズム)を高度な技術として扱いました。例えば「アキレスと亀」のパラドックスのように、論理的な手順を踏みながら、直感に反する結論を導き出すには、論理法則への深い理解と、それをハックする知性が必要です。つまり、詭弁家は「ルールを知った上で、ルールを利用する悪党」です。 しかし、ご指摘の通り、現代の多くの批判は詭弁のレベルにすら達していません。 三段論法(A=B, B=C, 故にA=C)の形式さえ踏まえず、「Aは気に食わない、だからCは間違いだ」というような、感情と論理の区別がつかない幼児的な結合がまかり通っています。 これは悪意あるハッキングではなく、単なる「バグ(誤作動)」です。論理的演繹が破綻していることに本人さえ気づいていないため、彼らを説得することは不可能です。論理のルールを共有していない相手と、論理的なゲーム(議論)は成立しないからです。

「定義の放棄」という防御壁

「定義を曖昧にしたまま主張する」という態度は、最も卑怯な防御策の一つです。 「それは人権侵害だ」「それは差別だ」といった強い言葉を使う際、その言葉の定義や適用範囲を明確にしないことで、批判者は「動くゴールポスト」を手に入れます。反論されたら、「いや、そういう意味で言ったのではない」と後出しジャンケンで逃げることができるからです。 本来、議論において定義付け(Definition)は、主張する側の義務です。「私はこの言葉を、この範囲と文脈で用いる」と宣言することは、自分の逃げ道を塞ぐ行為であり、勇気が必要です。この「定義と要件の提示」という面倒な手続き(コスト)を相手に丸投げし、「私の意図を察して正解を出せ」と迫る態度は、コミュニケーションにおける甘えであり、幼児的万能感の表れと言えます。

立証責任の転嫁と「悪魔の証明」

「立証責任(Burden of Proof)の転嫁」は、この手の幼稚な論理展開における常套手段です。 本来、「ある」と主張する側が証拠を出す必要がありますし、「問題がある」と主張する側がその害悪を証明しなければなりません。しかし、安易な批判者はしばしば、「問題がないと言い切れるのか? 証明してみろ」と、相手に「不在の証明(悪魔の証明)」を求めます。 これは修辞学的には「無知に訴える論証(Ad ignorantiam)」と呼ばれる誤謬の一種ですが、多くの場合はそこまで高尚な意図もなく、単に「自分が説明するのは面倒だから、お前が論破してみろ」という知的怠慢に過ぎません。 自分は安全圏(証明義務のない場所)に身を置き、相手にだけ無限の証明コストを強いる。この構造が見えた時点で、それは対等な対話ではなく、一方的な搾取であると断定してよいでしょう。

沈黙という品格

修辞学の基本は、ロゴス(論理)、エトス(信頼)、パトス(感情)の統合にあります。しかし、「詭弁未満」の言説にはロゴスが欠如し、卑怯な振る舞いによってエトスも失われています。残るのは、ただ喚き散らすだけの歪んだパトスだけです。 もし私たちが、こうした「幼稚な論理展開」に遭遇した時、最も有効な修辞学的態度は何でしょうか。それは、反論することでも、教育することでもありません。 「無視」です。 論理の土俵に上がっていないものを、土俵に上げてはなりません。定義も要件も満たさない言葉は、意味を持たない「音」に過ぎないからです。 真に修辞学を解する者は、言葉の重みと、論証の難しさを知っています。だからこそ、安易なツッコミを入れることの浅ましさを自覚し、確信を持てないことについては「沈黙する」という勇気を持つのです。この沈黙こそが、騒がしい現代において最も雄弁な知性の証明となるでしょう。
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