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哲学 philosophy
ソクラテス的な無知の知は、答えの行き詰まりを知っているという一種の気づきであり、哲学的な到達点の不完全性を示すようなものであるが、その先に不可知を理由に神学的な自己欺瞞に走るのは誤謬であると言わざるを得ない。
何かしら宗教的な信仰は、心底の納得ではなく、納得しようとしているという構造を持っている。
ソクラテス的無知の知とは、「自分が知らないということを知っている」という自己認識の態度である。これは古代ギリシャの哲学者ソクラテスが展開した思索の出発点であり、人間の認識には限界があることを自覚し、常に問い続ける姿勢を重視する考え方である。彼は「無知の知」によって、誤った自信や思い込みから人間を解放し、対話と探求によって真理に近づく可能性を切り拓こうとした。
 
この「無知の知」は、知的誠実さの象徴であり、自己の無知を正しく認識することこそが知の第一歩であるとする。一方で、現代においてしばしば見受けられるのは、不可知性を理由に信仰や独断を正当化しようとする誤謬である。つまり「分からないから○○であるはずだ」という飛躍的な主張がそれに当たる。
 
例えば「人間には宇宙のすべてを理解することはできない。だから神の意志によるものに違いない」という論法が典型である。この考え方は「無知であること」を認める点ではソクラテス的態度に似ているように見えるが、本質的には大きく異なる。ソクラテスは「分からないこと」を「分からないまま」に受け止め、その問いを絶えず考え続けることを尊重した。しかし、不可知を理由にした信仰の誤謬は、分からないからこそ「信じる」という飛躍を正当化し、探求を停止させるのである。この誤謬は「無知に訴える論証(argument from ignorance)」と呼ばれる論理的誤りに分類される。「証明できないから正しい」という思考は、知的怠惰を生みやすく、時に偏見や独断、非科学的信念の温床となる。科学的な態度とは、知の限界を認めつつ、現時点では分からないことを「仮に保留」し、可能な限り客観的な検証と議論を続けることである。それに対し、不可知を信仰の拠り所にする態度は、疑問そのものを封じ、対話や批判を拒絶する傾向を持つ。
また、ソクラテス的態度は根本的に「反省的」であり、「絶対に正しい」と断定することを恐れる。彼は自身を「誰よりも無知である」と認めた上で、それでも善く生きるための探求を止めなかった。つまり「知り得ない」ことを理由に、人生の問いや行動を放棄しなかったのである。これは「分からないことは分からない」と誠実に向き合う態度であり、安易な信仰や思い込みへの防波堤となる。
 
不可知を理由とした信仰は、時に人々に安心感や帰属意識をもたらすが、同時に思考停止や独断、他者への排他性を助長する危険性も孕む。だからこそ、ソクラテス的「無知の知」の姿勢は現代社会においてなお重要であり続ける。絶えず問いを持ち、常に「それは本当か」と自問し、対話を通じて少しずつ理解を深めていく姿勢こそが、人間の知性と自由を支える根幹である。
ゆえに、不可知を理由に信仰や断定に逃避することは、知への誠実さを失う行為であり、むしろ「分からなさ」を原動力とし、思考を続けることこそが、ソクラテス的哲学の本質なのである。
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