哲学 philosophy
有と無を抽象化した空のような透明。苦楽の両極端、あえて極端にいくと、その限界や本質が見えてきたりする。そしてそれは透明的である。快楽と苦しみの間にいるのは中間であり、その両極端を知り、見極め、さらに先に行く。すべてを包括するという抽象性を持ち可能性として全てを含むような透明、白ではない空白、まっさらな空間のような地点が最高の到達地点である。
白と黒の先にある透明へ
白と黒の先にある透明へ
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色受想行識の内の行と諸行無常の関係性。
仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は五蘊と表現され、経典においても色受想行識、五蘊盛苦としてよく出てくる。これは体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚などを発端とし、現象をこころが受け取るプロセスについて表現している。諸行無常の「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分になる。
諸行無常(仏教)
仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は五蘊と表現され、経典においても色受想行識、五蘊盛苦としてよく出てくる。これは体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚などを発端とし、現象をこころが受け取るプロセスについて表現している。諸行無常の「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分になる。
諸行無常(仏教)
四苦八苦という苦しみの分類にしても哲学としての領域となる。
単に苦しみの分類をしたというだけでなく、苦しみの生起と消滅、そして苦しみの原因を細かなところまで考察して哲学的に捉えているものが四苦八苦の概念である。
単に苦しみの分類をしたというだけでなく、苦しみの生起と消滅、そして苦しみの原因を細かなところまで考察して哲学的に捉えているものが四苦八苦の概念である。
仏教の生苦は生きることそのものの苦しみ。
基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。
「生苦」生きる苦しみ
基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。
「生苦」生きる苦しみ
唯物論は仮観の世界観である。
中観における仮観と空観の世界観のうち仮観の捉え方ということになる。
思考上でその可能性を模索するということはいいが、空観を否定することはできない。
空観を否定することはできないことをもって、仮観の絶対性は否定される。
よって唯物論が絶対であるということにはならない。
唯物論
中観における仮観と空観の世界観のうち仮観の捉え方ということになる。
思考上でその可能性を模索するということはいいが、空観を否定することはできない。
空観を否定することはできないことをもって、仮観の絶対性は否定される。
よって唯物論が絶対であるということにはならない。
唯物論
自分がこだわりを持つものは、全て意識的なものか無意識的なものかを問わず記憶で作られています。いろいろな意図は無意識レベルで形成されています。遺伝子レベルを含めた情報の集合体が自我ということになりますが、表面的な意識だけでなく、この意識が気づかない部分にある記憶等々も含めていわるる「自分」ということになります。無意識の状態が同調によって周りに影響を与えるということがあります。
そうした無意識的動作や無意識的選択の習得の影響は凄まじく、とりわけ「誰からも指摘されず特に問題にならないこと」であればあるほど、幼少期に保護者や兄弟姉妹などから得た影響が残っていたりします。
意識的操作を超えたもの
そうした無意識的動作や無意識的選択の習得の影響は凄まじく、とりわけ「誰からも指摘されず特に問題にならないこと」であればあるほど、幼少期に保護者や兄弟姉妹などから得た影響が残っていたりします。
意識的操作を超えたもの
自由意志の科学的な捉え方として、人文科学上と自然科学上でごっちゃにしているケースがよくある。生理反応として本能レベルの反射を抑制できるのかどうかと言うような点は、厳密には自由意志とは呼ばない。この意志の意志決定が本当に何にも影響を与えられず自由なのかという問題なのだから。
自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
倫理や道徳と宗教哲学の関係、倫理と道徳の違い。
倫理と道徳の違いとして、倫理は自分はどう生きるか、道徳は社会の中で人はどうあるべきか。倫理とは、理と関係性の中での基準となる人の行動基準、秩序としての行為。倫理学の分野としてアテネの時代から考えられてきた。倫理基準、行為の前提になる考え方を宗教の教義とするのが宗教哲学。宗教のないところに倫理は存在し得ないという見方すらある。
倫理と道徳が陥る罠
倫理と道徳の違いとして、倫理は自分はどう生きるか、道徳は社会の中で人はどうあるべきか。倫理とは、理と関係性の中での基準となる人の行動基準、秩序としての行為。倫理学の分野としてアテネの時代から考えられてきた。倫理基準、行為の前提になる考え方を宗教の教義とするのが宗教哲学。宗教のないところに倫理は存在し得ないという見方すらある。
倫理と道徳が陥る罠
唯物論(Materialism)とは全てを物として捉え、物理的な現象として捉えるということ。観念や精神、心などの根底には物質があると考えてそれを重視する考え方。自然発生的な発想では唯物論にたどり着くという妄言であり、すべてにおいて客観的な物質の状態や現象で全てが説明できるという戯言。物理的な現象を観測することができてもその先の「この私」の認識は説明できない。唯物論者は自称知的で科学的な良識ある賢人。観念論者を迷信的・非科学的という風に見るが、物質中心の盲目が生じ、根本的なところを見落としている愚者。 唯物論者
唯物論は -哲学で、精神的なものに対する物質的なものの根源性を主張し、精神的なものはその現象ないし仮象と見なす認識論的、形而上学的な立場である。
唯物論は観念論の対義概念
唯物論は観念論の対義概念として、観念論を叩くためによく用いられるが、唯物論最大の欠点は、最終的にな「心で捉える」という点を棚上げして無視している点である。脳内の状態の観測を持って気分などの情動を解説したりはするが、その最終的な受け取りに関しては何の説明もなされていない。「唯物論」 とは、神や霊魂、精霊、幽霊のような、物質的な基盤を持たない存在を認めない思想的立場という意味ではない。唯物論者の中にも神学に陶酔していたり熱狂的なクリスチャンなどがいるからだ。
霊的な立場を否定するのが唯物論である考えると誤解を招く。
涅槃は理解するものでないとすれば、どう取り扱えばいいのか。
それは正知の上で現れてくるものであると、仮止めとして概念で把握しておくくらいしかできない。
こうした概念は登り切る前のはしごであり、渡り切る前の筏である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
それは正知の上で現れてくるものであると、仮止めとして概念で把握しておくくらいしかできない。
こうした概念は登り切る前のはしごであり、渡り切る前の筏である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
動物と人間を対比した時に、人間の傲慢さが出てきますが、動物よりも害のある人間はたくさんいます。露骨に害を与えるような人だけでなく、動物に対して「人間の感情優先」という考え方をも持っている人たちもいます。しかし、所有・処分権は人と人との関係、他人と自分との関係であり、その生命体と自分たちとの関係ではありません。人間性と道徳 豊かな人間性や社会性。学問は人間性を向上させるためにあると捉える教育。道徳形而上学の基礎づけ。道徳性を備えている限りの人間性は、それのみが尊厳を持つものである。
解明解決という視点
問題を解明して解決するということは一般的な手法ですが、ある危険性を孕んでいるということについてはあまり触れられません。問題だとされることが、本当に問題なのか、ということを考えてみればいいでしょう。確かにある側面では問題なのかもしれませんが、それは「ある側面」という相対的尺度を採用したから起こっています。それならば言いたい放題です。正しさは、勝手な基準で勝手に決めていることであり、まさに自前の相対的尺度そのものです。どこにも絶対性はありません。ただの相手のこだわりです。しかしこの相手のこだわりを採用してしまえば、自分が正しくない人になってしまいます。認めなければ問題にもならないことを、自分で問題だと思ってしまいます。これは、わかりやすい例ですが、同じような構図は社会にたくさん溢れています。ある問題と、問題の解決策を提示されると、前提となる問題やそのフィールド自体の属性を無意識に肯定してしまうということです。
解明解決策自体は、確かに誰かの「あるフィールド」での話です。しかし、本当に問題はそこなのか、どんどん問題を単純化していきましょう。相手のフィールドで戦おうとするから、負けを恐れて苦しむという事があるということです。
どうして相手に勝たねばならないのでしょうか。一体何の戦いでしょうか?
それは自尊心獲得ゲームです。
解明解決 意識の分野の解消法 抵抗感の破壊
言葉の印象にとらわれると、本質的な思考が阻害される。
厳密な定義を持ち出すほど、思考が阻害されることがある。
抽象的な一種のラベルとして捉えておくべきである。
厳密な定義を持ち出すほど、思考が阻害されることがある。
抽象的な一種のラベルとして捉えておくべきである。
物質の作用で説明がつくのは途中までで、結局それを根拠に、「全ては物質の作用、状態、位置関係」などで「すべて」を説明することは不可能なことは明らかです。こういう研究で、薬を作ったりするのは大いに結構ですが、だからといって「この世の全て」を説明することはできません。結局感じているということはどういうことか、それを考えると、物質として観測は可能でも、主体は物質ではないのではないか、という疑問が残ります。物質であろうがなかろうが、今を認識している存在の中心のただ一点は、物質の流れを見ても観測できません。唯物論のオチとして物質の作用で説明がつくのは途中までで、結局それを根拠に、「全ては物質の作用、状態、位置関係」などで「すべて」を説明することは不可能。
唯物論
パラドクスとは、こっちだと思っていたらあらあらあら、あっちでした、というパターンです。
ウィキからでも引っ張りましょうか。正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。
官僚さんや会社の偉い人が陥りやすいパターンです。
官僚さんは自分たちが作れる省令や通達によって、国民、企業等をコントロールできる、と思っています。
そしてそのコントロールできる権限に酔いしれています。企業の偉いさんは、自分の持つ人事権などで従業員をコントロールできます。
自分の嫌いな人を左遷することによって、自分の力に酔いしれています。これは自分には力があり、自分の気分で周りをコントロールできる、ということに酔っていることになりますが、よく考えてください。
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