哲学 philosophy
普通はニーチェのいうニヒリズムに関しての解説から入るところでしょうが、そんなことはしません。そんなことは検索すればすぐに出てきます。ニーチェがあ る意味でキリスト教に囚われていたように、現代の解説者はニーチェに囚われすぎています。ニヒリズムという言葉自体の発端がその辺なのである意味では仕方 ないことです。しかし、虚無というところから考えていきましょう。ニヒリズム
ニヒリズムは虚無主義とも。過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場。あらゆる存在に価値を認めない考え方。虚無主義。..物事の意義や目的といったものは存在しない、自分の存在を含めて全てが無価値とする。
ニヒリズム・虚無主義

ニヒリズム(虚無主義)は、あらゆる存在の客観的価値を否定し、宗教・道徳・権威を否定する考え方で、消極的ニヒリズムは、世捨て人のような立場であり、積極的ニヒリズムは、価値が無いのなら自分で価値を生み出そうという立場。何をやっても何にも価値が無いのだから、消極的に受動的に生きていこうという発想、これが消極的ニヒリズム、受動的ニヒリズム。積極的ニヒリズムは、「絶対的で本質的な価値が無いなら、自分でその価値を作ってしまえ」というようなもの。虚無主義とは『物事の意義や目的は存在しない』とする考え方。意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値を認めないことで逆に、なんでもありだと考えるのが積極的ニヒリズムである。
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空白のキャンバス:絶望の源泉か、創造の自由か
消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムの違いは、目の前にある「真っ白なキャンバス(無価値な世界)」をどう解釈するかという態度の違いに集約されます。 消極的ニヒリストは、キャンバスを見てこう嘆きます。 「ここには絵が描かれていない。ガイドラインもない。正解の色も指定されていない。だから、何を描いても無駄だ。虚しい。」 彼らにとって「価値」とは、外部(神、伝統、権威)から与えられるべきものであり、それが見当たらないことは「欠落」でしかありません。これが「末人(ラストマン)」と呼ばれる、安楽と退屈の中でただ死を待つだけの生存状態です。 一方、積極的ニヒリストは、同じキャンバスを見てこう歓喜します。 「ここには絵が描かれていない。つまり、誰の指示も受けず、私の好きな絵を自由に描いて良いということだ。過去の巨匠(権威)の真似をする必要もない。この空白こそが、私の自由の証明だ。」 彼らにとって「価値」の不在は、欠落ではなく「無限の余白」であり、創造への招待状となります。「価値の転換」:発見するのではなく、捏造する
積極的ニヒリズムの真髄は、「価値の転換(Transvaluation of all values)」にあります。 多くの人は人生の意味を「探そう」とします。「自分探しの旅」や「天職の模索」です。しかし、ニヒリズムの立場に立てば、そんなものはどこを探しても落ちていません。宇宙のどこを掘っても「人生の意味」という物質は出てこないのです。 積極的ニヒリストは、「探す」という行為自体が間違っていることに気づいています。意味は「発見するもの(Find)」ではなく、「捏造するもの(Forge)」だからです。 「捏造」という言葉は悪い意味に使われがちですが、ここでは「創造」と同義です。 「客観的には無価値である。しかし、私はこれに価値を感じることに決めた。だから、私にとってはこれが絶対的な価値である」。 この主観的な「決定力」こそが、積極的ニヒリズムのエンジンです。根拠のない自信、根拠のない情熱。論理的根拠(真理)がないからこそ、自らの「意志(Will to Power)」だけを根拠にして、世界に意味を強制的に付与するのです。運命愛(アモール・ファティ):必然としての肯定
積極的ニヒリズムが到達する境地の一つに、ニーチェの説く「運命愛(Amor Fati)」があります。 これは「辛いことがあっても我慢して愛そう」という諦めではありません。「無意味で、残酷で、不条理なこの人生のすべてが、もし無限に繰り返されるとしても(永劫回帰)、私は『よし、もう一度!』と叫んで肯定してやる」という、攻撃的なまでの肯定の姿勢です。 人生に目的(ゴール)がないのなら、ゴールにたどり着くことではなく、「走ることそのもの(ダンスすることそのもの)」が目的化します。 消極的ニヒリストは「ゴールがないなら走っても無駄だ」と言って座り込みます。 積極的ニヒリストは「ゴールがないなら、どこへでも走れるし、今この瞬間の疾走そのものを楽しめばいい」と言って走り出します。 ここにおいて、無意味さは「軽やかさ」に変わります。深刻になる必要などない。なぜなら、元々意味などないのだから。失敗しても、道に迷っても、それは宇宙的な損失ではない。ただの「遊び」のワンシーンに過ぎない。この達観が、強烈な生のエネルギーを生み出します。「空」と「積極的ニヒリズム」の接点
この積極的ニヒリズムの態度は、先述した仏教の「空(くう)」や「諸法無我」の理解と、驚くほど親和性があります。 仏教もまた、「固定的な実体や価値はない(空)」と説きます。しかし、それは虚無ではなく、「縁起によっていかようにも現れる」という可塑性(かそせい)を意味していました。 積極的ニヒリストとは、仏教的に言えば「空であることを完全に理解した上で、あえて夢(仮の価値)を本気で遊ぶ人」のことです。 「どうせ幻(マーヤー)だ」と言って冷めるのではなく、「どうせ幻なら、最高に面白い幻を現出させてやろう」と意気込む。 この時、ニヒリズムは絶望の哲学から、究極の「オプティミズム(楽観主義)」へと反転します。 「神がいない」ということは、「神の裁きもない」ということです。「地獄もない」ということです。恐怖による支配から解放され、私たちは自らの良心と美意識のみを羅針盤として、荒野を歩む自由を手に入れたのです。笑うライオンとして生きる
消極的ニヒリズムは、重荷を背負った「ラクダ」のように、世界に押し潰されて生きます。 しかし、積極的ニヒリズムは、既存の価値観を破壊する「ライオン」となり、最終的には無邪気に遊ぶ「幼子」のように生きます。 「なんでもあり」の世界は、弱者にとっては恐怖ですが、強者(精神的な貴族)にとっては遊び場です。 「意味がない」という事実に絶望する必要はありません。それは「白紙の原稿用紙を渡された」という事実に過ぎないからです。そこに「悲劇」と書くか、「喜劇」と書くか、あるいは「意味不明な詩」を書くか。ペンは、最初からあなたの手に握られています。 積極的ニヒリズムとは、虚無という深淵を覗き込みながら、その淵で高らかに笑い、踊るための哲学なのです。PR
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