哲学 philosophy
一切皆苦(いっさいかいく)は、本来、一切行苦(いっさいぎょうく)と表現され、全ての形成されたものは苦しみであるという意味を持つ。パーリ語から考えると、諸行無常の諸行と一切行苦の一切行は同一の表現となっている。一切行苦とは、すべての形成されたものは苦しみであり、思い通りにならない不満や不完全としての苦しみを指す。色は苦なり、受想行識も苦なりと経典で表現される。
一切行苦(一切皆苦)
一切皆苦は一切行苦が正式な表現である。 「形成されたもの(諸行)」がなぜ「苦(ドゥッカ)」なのか。物理学的な視点を取り入れると、それは「エントロピー増大の法則」への抵抗として説明できます。 自然界の全てのものは、放っておけば崩壊し、無秩序(乱雑さ)へと向かいます。その中で「形」を維持するためには、常にエネルギーを投入し続けなければなりません。肉体を維持するには食事が必要であり、建物を維持するには修繕が必要であり、人間関係を維持するには配慮が必要です。 つまり、「形成された状態」にあること自体が、すでに「崩壊への抵抗」という緊張状態(ストレス)を内包しているのです。一切行苦とは、「存在し続けることのコスト(維持費)」の重たさを指しています。
一切行苦と諸行無常の「行」
行とは形成されたものを意味し、それは常に変化するとするのが諸行無常であり、それは同時に苦しみであるというのが一切行苦である。常に変化するその「形成されたもの」は、客観的な物理現象だけでなく、それを認識する心の状態も含まれる。それは気分から、物理的な物を視覚的に捉えるということまで全てを意味する。一切皆苦・一切行苦の本意
宗教化した仏教においては、そうした哲学的な捉え方はされていない。死後の極楽などを苦の世界としたくはないため、この世を一切皆苦ということにしたいという意図が見える。自分の思い通りにならないという精神的な苦しみの原因が自我にあることを指すのが一切皆苦・一切行苦の本意である。一切行苦(一切皆苦)
一切皆苦は一切行苦が正式な表現である。 「形成されたもの(諸行)」がなぜ「苦(ドゥッカ)」なのか。物理学的な視点を取り入れると、それは「エントロピー増大の法則」への抵抗として説明できます。 自然界の全てのものは、放っておけば崩壊し、無秩序(乱雑さ)へと向かいます。その中で「形」を維持するためには、常にエネルギーを投入し続けなければなりません。肉体を維持するには食事が必要であり、建物を維持するには修繕が必要であり、人間関係を維持するには配慮が必要です。 つまり、「形成された状態」にあること自体が、すでに「崩壊への抵抗」という緊張状態(ストレス)を内包しているのです。一切行苦とは、「存在し続けることのコスト(維持費)」の重たさを指しています。
1. 「思い通りにならない」の構造:地図と領土の不一致
「一切皆苦」の核心である「思い通りにならない(不満足)」という感覚は、どこから来るのでしょうか。それは、「自我が描く地図(行)」と「実際の領土(現実)」の決定的なズレから生じます。 自我(エゴ)は、生存戦略として「世界を固定化」しようとします。「私はこういう人間だ」「あの人は優しい人だ」「明日は晴れるはずだ」。このように、流動的な現実を切り取り、固定された概念(地図)を作成します。これが「形成作用」です。 しかし、現実は「諸行無常」であり、一瞬たりとも固定されていません。地図は完成した瞬間から、刻一刻と変化する現実(領土)とズレ始めます。 ・「優しいはずの人が怒った」(地図と現実のズレ) ・「健康なはずの体が痛む」(地図と現実のズレ) ・「ずっと愛してくれるはずだったのに」(地図と現実のズレ) この乖離(ギャップ)に直面した時、自我は叫びます。「違う! こんなはずではない!」と。この叫びこそが「苦」の正体です。現実が悪いのではありません。変化し続ける現実に対し、賞味期限切れの地図(形成された概念)を押し付け、現実の方を地図に合わせようとする無理な努力が、苦を生んでいるのです。2. 宗教的誤謬:天国もまた「行苦」である
ご指摘の通り、宗教化した仏教が陥りがちな罠は、「この世は苦だが、あの世(極楽・天国)は楽だ」という二元論です。しかし、本来の哲学的な一切行苦の定義に照らせば、これは誤りです。 もし「天国」という場所があり、そこに「私」という個体が存在し、「幸福」という状態を感じているのなら、それもまた「形成されたもの(行)」です。幸福を感じるための受容体があり、対象があり、意識がある限り、そこには必ず変化があり、それを維持しようとする執着(渇愛)が生じます。 神々ですら、その寿命が尽きる時(形成が解かれる時)には苦しむとされます。場所を変えても、条件を変えても、「形成されている」限り、構造的な不安定さ(ドゥッカ)からは逃れられません。 一切皆苦の本意は、「場所の移動(ここからあそこへ)」による救済を否定し、「形成すること(構造化)」そのものの停止(止滅)を目指す点にあります。3. 自我という「終わらない工事現場」
私たちが最も執着し、最も苦しんでいる「形成されたもの」。それは「自分自身(セルフイメージ)」です。 私たちは一生をかけて、「私」という巨大なモニュメントを建設し続けています。他者からの評価というレンガを積み、知識というセメントで固め、地位や所有物で装飾します。しかし、このモニュメントは砂上の楼閣です。少しの批判、少しの失敗、そして老いという波によって、簡単に崩れ落ちます。 崩れるたびに、私たちは必死で修復作業を行います(自己正当化、プライドの回復)。この「終わらない修復作業」の徒労感。これこそが、自我にまつわる一切行苦です。 「私は素晴らしい人間でなければならない」「私は価値ある人間でなければならない」。この形成作用(思い込み)が強ければ強いほど、現状とのギャップに苦しみ、維持コストに圧迫され、精神は疲弊します。4. 「形成」の手を休める
では、どうすればよいのでしょうか。一切行苦からの解放は、「思い通りにする力」を手に入れることではありません。逆に、「思い通りにしようとする形成作用」を休めることです。 何かを見ても、そこに過剰な意味(物語)を付け加えない。 感情が湧いても、それを「私のもの」として固着させない。 自分を「何者か」に作り上げようとしない。 「ただ、現象が起きている」。 このように、形成作用(行)を最小限にし、現実に対する介入(コントロール欲求)を手放した時、世界との摩擦は消滅します。 「苦しみ」は、世界そのものにある属性ではなく、私たちが世界を「加工(形成)」しようとした瞬間に発生する「熱」のようなものです。加工をやめ、素材のまま(あるがまま)の世界と一つになれた時、そこには苦も楽も超えた、静寂な「事実」だけが残ります。 一切皆苦を知るとは、悲観することではなく、「もう、無理に頑張って世界を固めなくてもいいのだ」という、深い安堵を得ることなのです。PR
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