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哲学 philosophy
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静 とは、「悟り」と呼ばれる仏教の目的であり到達地点で、仏教において、煩悩を滅尽して悟りの智慧の完成の境地。

涅槃(Nirvana)・涅槃寂静

涅槃(Nirvana)とは

涅槃(Nirvana)とは、仏教の究極的な実践目的であるが言語で示すことができない。
解脱と同様に表現されるが、どこかに行くわけではない。

涅槃寂静 とは

涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。
涅槃寂静
涅槃寂静とは、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った静かな安らぎの境地である。仏教の最終目標。ただ言語で示すことはできない。ポジティブな表現をすれば「最高の安穏」であり、煩悩の火が消えた、一切の苦しみのない境地という意味である。
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抽象度の高い哲学の主題
哲学の主題は抽象度が高い概念となる。
主題として、存在、因果、真理、本質、同一性、普遍性、観念、概念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、数学的命題、論理、言語、知識、人間一般、理性、自由、意識、精神、自我など。倫理学的には、正義、善悪などがある。
合意のために抽象的なことを具象化する必要が生じる場合があるが、そのために元の意からは外れてしまうことが起こる。そして合意のために、観念がぐらつく。よって、内側の思考においては、合意を除外しつつ理性を保つ必要がある。
曖昧に抽象的なまま語ると妄想に見える。だからこそ語る時は具象化が必要になる。
(具象とは具体。はっきりした姿・形を備えていること)
ただ、具象化すれば意味が変わってしまうことがあり、限定が入る。
その影響で観念自体を変化させないということが重要となる。

合意と具象
願望の定義と不足。


「願ってその実現を望むこと」というのが一般的な願望の定義となるようだが、比較的ポジティブに「不足に気づくこと」が願望の本質的な定義である。
意識的に「望んでいる」ということは、今現在無いという認定であり、かつ、それが自分の幸福感にとって不足している対象だと考えていることになる。
つまり不足が願望の正体である。


願望とは何だろう!
曙光

曙光』(1881年)において、ニーチェは「力の感覚」を強調する。道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判も完成した。曙光のアフォリズム集でニーチェが求めているのは、自らが特殊な体験を得ることであるかのようにみえる。曙光のアフォリズム 曙光第一書 曙光第二書
ニーチェは、その著書に随所にアフォリズムを用いた巧みな散文的表現が多く、これには文学的価値も認められる。
ここにコップはありますか?というような質問に対して、「イケアのコップがある」「そこに一つだけある」とかいうのは聞かれてもいない属性を勝手にくっつけているだけで純度は低いというようなことは直ぐにわかりますが、世間ではよくあるような光景です。そこで、「あります」というような答えが純度の高いような答えに見えますが、それは物事を純粋に見ているわけではありません。そこで普段は「答え」に対して正解などを定めたりしますが、その答えの手前にどんな理由のもとそういう答えになったのか、というようなことを考えてみましょう。「純粋な精神」の偏見 プラトンとイデア
倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。

風習とは、しかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。

風習の倫理
諸法無我はパーリ語でsabbe dhammā anattāと表現される。このうち、諸法無我の法はダンマであり、それは概ね法則、理、真理を意味する。すぐに再現可能で確認可能な法則のことが真理であり、諸法無我の法はそうした「真理」を意味する。
諸法無我は複数の意味を示しており、理解しがたい。

諸法無我とアートマン
諸行無常とは、一切の形成されたものは固定的ではないという意味であり、その諸行の行は、形成作用と言う意味を持つ。よって、万物とかすべての物事という表現は間違いとは言わないが、定義が不足している。
常に生滅を繰り返す因と縁によって生ずるすべての現象を捉えること、心で印象を得るということを見逃してはならない。

諸行無常(仏教)
唯物論はあくまで観念論の対義語としての位置づけにあるものであり、神的なものを否定するというものではない。 日本では神や霊魂の否定の意味かのように捉えている愚者がいる。 そうした意味で唯物論という概念があるわけではない。 根本的に唯物論には欠陥があり、ココロというものをどう取り扱っているのかを説明できていないという根本問題があるというだけのだ。
ニーチェが言いたかったのはおそらく「ルサンチマンは生を否定する」という点だろう。
強者への僻みを持ちながら強者になろうという意志を否定し、堪え忍ぶことを美徳とするのはおかしいというようなことになるだろう。
ルサンチマン(ressentiment)
一時期流行った”自分探し”ってやつは、何も都合良すぎる自分を探し求めることではなくて、自分に向いている場所を見つけることだった。それには極力、”自分”ってやつを無くしていけば向いている場所も増えるっていう至って単純な話。自分をなくそうと思うと、自分を意識してしまいがちになります。何かにとらわれないでおこうと思えば思うほど力んでしまって、結局意識からは離れてくれないものです。「強いて言えば、これ」だったものがいつしかそれにばっかり気を取られて、知らぬ間に執着しているものです。それに出会った時は「どちらかといえば」レベルだったものが、知らぬ間に「これじゃなきゃ嫌だ」ということになったりしています。しかし、思い返せばそれに執着する根拠はどこにもありません。
さよなら私 さよなら私 改自分なくし 改 始めと終わり 改 ないものねだり 改 モテないが正しい 改
五蘊盛苦・五取蘊苦の五蘊(ごうん)とは、色受想行識。それぞれ色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。
五蘊盛苦・五取蘊苦の盛、取は、執著を示す。

四苦八苦のうち最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦
「現在も未来も過去の延長だろう」というのが普通の感想ではあるが、本来因果律は過去に基づいて未来が決定されているのではなく、今の意識の向きが未来を作り、それが現在にやってくる。過去の延長に思えるという印象の構造を分解すると「今の意識の向きが過去に基づいているから」という感じになり、過去に基づいているにしても、「過去のどの部分に重要性をおいているか」という配置や順番も関係している。
 
「今の意識の向き」は瞬間で変化しているが、過去のどの部分に重要性をおいているか」という状態が狭い幅である程度固定化されています。
しかし、実は「今の意識の向き」は、本来そうしたものに依存していません。もっと柔軟に変えることができる。そしてそれは観察によって変化する。
 
「今の意識の向き」として、何を観察すればよいのか?
 
それは「自我では想像もできない最高の状態を観察する」というのが正解であり、構造上、裏を返せば「自我を手放せば自動的にそちらに向く」ということになる。
常に空である全宇宙・全可能性の中はいる。ただ、今の意識の向きによって絞り込みが行われ、「心がその状態をただ受け取っている」というような感じになっている。
手放し対象となる自我とは「自分と関係しているものの集まり」であり、通常は、空である全宇宙・全可能性の中から「自分と関係しているもの」という絞り込みがなされている。そこから「自分と関係しているもの」を外し、空と統合すると、全宇宙、全可能性の中に「心」が移る。

人の尊厳と可能性

本能的なものというのは無駄がなく知性的です。

ニーチェがそんなことを言っていました。

純粋に本能的なものほど、知性を感じたりします。

「モテるために、英会話をマスターしよう」というのは、実に遠回りで音痴のような気がします。

同様に、スリムになるために食事を制限するというのも、知性的ではありません。

「今日起きたのは7時、この起きている時間で、あの時にこれだけ、さっきはこれだけ体力を消耗した、摂取した栄養素はこれこれで、なになにが不足しているが、今の所は許容値、ひとまず11時までには寝るべきだ」などとわざわざ計算せずとも眠くなって勝手に寝ます。純粋な知性

我思う故に我あり、これはコギトエルゴスムの日本訳である。



デカルトの方法序説に出てくるコギトエルゴスムの概要としては、目をなくしても、鼻をなくしても、五感を全てなくしても、結局「考えている自分」というものから「自分」というものは切り離せないというようなこと。デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していったとされる。
コギト エルゴ スム
一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明であるとする命題である。コギト命題。

形而上学的パッケージプラン

目に見えない領域のことについて、数ある可能性の中から、有名な書物を用いて確定させていくのが、世の宗教ではないでしょうか。「考えても仕方ないよ」ということで、「まあこういうことだから」という感じで、考えてしまう思考の部分を落ち着ける作用があります。方便という言葉があります。本当のことをいきなりいったところで、理解できないから、仮のたとえでひとまず落ち着けるというやり方です。本当はどうでもいいことについて、「どうでもよくない!」と躍起になっている人をひとまず落ち着かせるためのものです。その方便を本気で信じている人たちがいます。信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。

形而上学的パッケージプラン
メタフィジック(metaphysics)
非常にわかりにくいですが、五感の情報は外からの情報を感知する機能によって意図とは別に、感じてしまいます。じゃあ自分が考えているというのは外の現象に左右されていないのかというと、それもすべて外部の情報に依存してしまいます。記憶も癖も考え方のパターンも「何もないところからいきなり現れたもの」というのは考え難いと思います。教育や他とのコミュニケーションによらず、本能としてあらかじめ組み込まれていたとしても、自分が作り上げたものではありません。じゃあ「私の考え」とは、一体なんなのでしょうか。「私は考えている」というのも、もっと適切に言えば「考えさせられている」とも言えますし、「外からの情報によって自動発生している」とも言えます。かと言って、外の現象(―による情報)の出発点が「人間より上位の存在」というのは、妄想の域を出ません。

コギトエルゴスム

客観の誤謬

客観視する、というのはどう転んでも、外側で起こっていることを認識できる間口は「主観」しかありえないのに、それを自分以外のところで起こっている何かとして、「自分の中」でイメージしていることにほかならない。外で起こっていることを純粋に客観的に「存在している」と認めるのは「主観」でしかないはずで、「客観的」という属性を帯びた主観でしかないことは明白である。

時間と主観
悟りの境地としての涅槃(Nirvana)は解脱と表現されることがあるが、そう表現すると誤解を生みやすい。仏教においては煩悩を滅尽して悟りの智慧の完成の境地が涅槃であり「悟り」と呼ばれる。インド・ネパール地方の他のバラモン系の概念とは異なるので注意が必要である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
利他主義は、利己主義の対義語で自己の利益よりも、他者の利益を優先するという主義。
「利他主義」の原因ということですが、利他主義はもちろん利己主義の対義語としての概念を持っています。
利他主義と、利他主義の対義語としてのは利己主義について
利他主義の原因
利己主義と比較して利他主義は美しく見えます、なぜなら、利己主義において蔑ろにされるのは利他主義者以外の人たちになります。一方で、利他主義であれば利を与えてもらえる対象に自分が含まれる可能性があるからです。
利己主義とはその字のごとく。自己の利益を最優先し、他者の利益を軽視したり無視したりする考え方であり、利己主義はその対義概念となります。利己主義は、相手の利益を優先するという形になりますが、相手の利益を通じて有形無形を問わず自分の利益に繋がるという構造を持っているので、間接的になっているだけという構造もあります。


不殺生戒は仏教のみならず様々なところで戒めとして捉えらているが、この不殺生戒は哲学的に検討しても合理性を持つ。非暴力・不傷害、殺生を禁ずることを、戒めであるから守らなければならないと考えることは盲信となる。
そうではなく、戒めがこの心にとってどのように働くのか、意識の性質を哲学的に捉えて、幸福とは何かを哲学的に検討していくと、不殺生戒がもつ合理性が見えてくる。
諸行無常は哲学領域の概念である。
「瞬間としての今の変化」と固定ということのありえなさ、そして記憶の連続性、執著の対象の本質を示すものが諸行無常である。「因」直接の原因、「縁」間接的な環境条件によって形成されたものは必ず変化するということを示す。
この諸行無常は、信仰的なものがなくても理解できる哲学的なものである。
哲学的に考察する「心」。心とは一体何なのか?ということの答えは様々な尺度から考察することができるが、次のような定義を示すことができる。
「心とは受け取る働きである」「心とは認識する機能である」「心とは受け取る点である」




原始仏教においては、外界の現象(色)が自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)を経由し、心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)に到達するという捉え方をする。
受け取る働きであり点であるとすると、「この心」については、対外的な証明の必要はなくなる。
様々な脳と心の関係も全てクリアすることになる。
一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能となるが、全ての問題を受け取る働きである心から逆算した捉え方をすることができる。

心とは何か
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