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哲学 philosophy
諸行無常(仏教)、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないこと。「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」
一般的な諸行無常について、大まかに定義すると、「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」
といった感じです。諸行無常はこの世の万物は常に変化してとどまるものはないこと。人生の無常をいう仏教の根本的な考え。一切は変化し続け、過ぎ去っていくというのが諸行無常。

「諸行」は、この世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。三法印、四法印のひとつ。諸行無常は、この現実の世界のあらゆる事物は直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので絶えず変化し続永遠のものではないということ。



しかしながら諸行無常はそうした現象や物質そのものを指すものではありません。「形成作用」や「形成されたもの」という意味を持ちます。諸行無常の解説の多くは、諸行無常の「諸行」に対し、諸々の物や出来事、つまり現象という感じで捉えられていますが、さらに厳密に考えた場合、諸行無常の行は対象を捉える時の意識の形成作用を意味し、形成されたものを意味します。
よって諸行とは全ての形成されたものという意味です。

諸行無常 諸行無常(しょぎょうむじょう)は、諸法無我(諸法非我)や一切行苦(一切皆苦)、涅槃寂静とともに、三宝印、四法印としてよく合わせて語られます。そのうち諸行無常はありとあらゆるものは変化しているという事実を意味し、その変化の対象は客観的な世界だけでなく、己の認識や、己の動機、己の目線など自分の内側ですら常に変化しているということを意味します。一切の形成されたもの対象に自分も含まれているということです。そして、それゆえに関連性の中で今成り立っているにしか過ぎず自分に実体はないという諸法無我につながっていきます。
対人関係と諸行無常 色受想行識と諸行無常
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仏教上の「老苦(ろうく)」つまり「老いる苦しみ」は、老いていくことを想起する苦しみであり、老いそのものよりも若さへのおごり、若き日への執著が老苦の中心概念である。



老苦の中には老化による体の不調というものも含まれつつも、過去の出来事、過去の自分の状態に対する執著、「思い通りにならない」という精神的執著のほうがその概念の根幹を示している。

「老苦」老いる苦しみ
涅槃寂静と解脱は異なるものである。悟りの智慧の完成であり、脱するというものは印象にしか過ぎない。

涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
涅槃寂静は頭で理解するものではないが、哲学的思索を繰り広げることはできる。
何が涅槃寂静ではないか、何が涅槃ではないかということを思考上で理解することはできる。
哲学的に検討するだけでも涅槃の解釈として「死ねば涅槃に入る」ということが誤謬であることが理解できる。
ただ、涅槃寂静を一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」という定義から検討するよりも、哲学的直感によって気づくというのが本来のプロセスである。
利他主義は、利己主義の対義語で自己の利益よりも、他者の利益を優先するという主義。
「利他主義」の原因ということですが、利他主義はもちろん利己主義の対義語としての概念を持っています。
利他主義と、利他主義の対義語としてのは利己主義について
利他主義の原因
利己主義と比較して利他主義は美しく見えます、なぜなら、利己主義において蔑ろにされるのは利他主義者以外の人たちになります。一方で、利他主義であれば利を与えてもらえる対象に自分が含まれる可能性があるからです。
利己主義とはその字のごとく。自己の利益を最優先し、他者の利益を軽視したり無視したりする考え方であり、利己主義はその対義概念となります。利己主義は、相手の利益を優先するという形になりますが、相手の利益を通じて有形無形を問わず自分の利益に繋がるという構造を持っているので、間接的になっているだけという構造もあります。
五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦は異なる。五蘊に対する執著がドゥッカを生み出すというのが五蘊盛苦・五取蘊苦であり、五蘊苦は五蘊から生じる単なる刺激としての苦しみである。

四苦八苦のうち最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦


不殺生戒は仏教のみならず様々なところで戒めとして捉えらているが、この不殺生戒は哲学的に検討しても合理性を持つ。非暴力・不傷害、殺生を禁ずることを、戒めであるから守らなければならないと考えることは盲信となる。
そうではなく、戒めがこの心にとってどのように働くのか、意識の性質を哲学的に捉えて、幸福とは何かを哲学的に検討していくと、不殺生戒がもつ合理性が見えてくる。
あらゆる苦しみである四苦八苦のうち、最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦である。五蘊盛苦とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味。



五蘊(ごうん)とは、色受想行識であり、それぞれ色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊と呼ばれる。。この心が受け取る世界はこの五種で構成されており、これら五蘊は世界を作る素因であり構成要素。 五蘊盛苦の「盛」・五取蘊苦「取」とは、執著を意味する。よって、五取蘊は5つの構成要素に対する執著という意味になる。
五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

六根「眼・耳・鼻・舌・身・意(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識)」の全てに五蘊が対応している。五蘊はこの心が受け取る世界を構成する要素。それぞれに「こうあって欲しい」という望みがあればそれが執著となる。そして、渇望を生み出し、苦が生じる。
五蘊に対して、思い通りにならないという不満足に対する執著を持ち、そして、執著により思い通りにならないという苦しみを得る。これが五蘊盛苦・五取蘊苦である。
この五蘊盛苦・五取蘊苦は四苦八苦の最後に出てくる。

苦しみや苦痛 四苦八苦(しくはっく)
一切皆苦(いっさいかいく)は、本来、一切行苦(いっさいぎょうく)と表現され、全ての形成されたものは苦しみであるという意味を持つ。パーリ語から考えると、諸行無常の諸行と一切行苦の一切行は同一の表現となっている。一切行苦とは、すべての形成されたものは苦しみであり、思い通りにならない不満や不完全としての苦しみを指す。色は苦なり、受想行識も苦なりと経典で表現される。

一切皆苦・一切行苦

一切行苦と諸行無常の「行」

行とは形成されたものを意味し、それは常に変化するとするのが諸行無常であり、それは同時に苦しみであるというのが一切行苦である。常に変化するその「形成されたもの」は、客観的な物理現象だけでなく、それを認識する心の状態も含まれる。それは気分から、物理的な物を視覚的に捉えるということまで全てを意味する。

一切皆苦・一切行苦の本意

宗教化した仏教においては、そうした哲学的な捉え方はされていない。死後の極楽などを苦の世界としたくはないため、この世を一切皆苦ということにしたいという意図が見える。自分の思い通りにならないという精神的な苦しみの原因が自我にあることを指すのが一切皆苦・一切行苦の本意である。

一切行苦(一切皆苦)
一切皆苦は一切行苦が正式な表現である。
ルサンチマンは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりしますが、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。

ルサンチマンを含まないニヒリズム

ルサンチマンも、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。では何のために解釈変更するのでしょうか。 何かが起こるときには何かの原因があります。人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。 そういった意味で紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。 そんな中で、「ルサンチマンを含まないニヒリズム」と言ったものが見えてくるでしょう。

力の感情 ルサンチマンを含まないニヒリズム
ルサンチマンは、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」、積極的ニヒリズムも本来はポジティブもネガティブもありません。
哲学の中心は抽象度の高い本質の追求にある。
現実への態度として、「現実が変わらないのであれば困る」という意見は自我の意見であり、現実を変えようとして「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。「現実を無視する」というと暴論のようですが、暴論ではありません。現実をただ観察するというのであれば問題はありません。

確認して苦悩が起こるなら無視して今楽になる方を選んでください。
現実を確認して起こる苦悩、苦悩の元である思考や判断を無視するということです。「なんとかなる」の状態になったら、不安・恐怖を伴う思考や妄想を無視する、かつ、現実を無視します、
何かに没頭していれば「自我」は出てこれなくなります。
現実を無視するということは、何かしらの問題に対して何の対策、対応もしてはいけないということではなく、逆に何もしなくても構いません。
何もしない方が楽なのであれば、何もしないということです。何かをした方が楽なのであれば、その何かを考えずに行うというような感じです。
その場その場で「心の安らぎにとって一番最適な選択をする」ということです。

現実を無視する
諸行無常は哲学領域の概念である。
「瞬間としての今の変化」と固定ということのありえなさ、そして記憶の連続性、執著の対象の本質を示すものが諸行無常である。「因」直接の原因、「縁」間接的な環境条件によって形成されたものは必ず変化するということを示す。
この諸行無常は、信仰的なものがなくても理解できる哲学的なものである。
諸法無我(しょほうむが)は、あらゆるものは因縁によって起こっており(縁起)、その中で固定的な「我」というものは無いという意味を持つ。直に訳すと真理の中で我は「我ならざるもの」という形になる。パーリ語ではsabbe dhammā anattā。
ダンマパダには
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」
と示されている。


諸法無我と諸法非我

諸法無我と諸法非我は同じだが若干のニュアンスが異なり、諸法無我は「我がない」というニュアンスだが、諸法非我は「我ならざるもの」というニュアンスである。
我がないということではなく、我も空ということを指すはずなので、諸法無我という表現は適訳ではないが、原始仏教が興った当時のバラモン・ヴェーダ文化の中では、魂を実在とし、真なる我(アートマン)が実在していると考えられていた。アートマンとは、ヴェーダの宗教における自我意識のない、意識の最も深い内側にある個の根源で「真我」と呼ばれる。それを否定するという意味合いもあって無我という概念が当てはめられたと考えるのが妥当だろう。
その根本原因としてバラモン・ヴェーダ・ヒンドゥーの宗教観・哲学では、魂=アートマン(真我。意識の最も深い内側にある個の根源)が実在し、ブラフマンと一体化することが悟り(梵我一如)であるとされていたことによる。諸法無我の意味するところには、ヴェーダの中の「アートマンは不滅」と考えられていた部分を否定するという要素も含まれている。諸法無我は通常、人間としての我は存在しないと解釈されるが、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がなく、無いというよりも有と無を抽象化した空であると解釈するのが妥当だろう。問題はその先にあるわれの実在感による我執であり、執着が苦しみを生むという点である。

諸法無我
哲学的に考察する「心」。心とは一体何なのか?ということの答えは様々な尺度から考察することができるが、次のような定義を示すことができる。
「心とは受け取る働きである」「心とは認識する機能である」「心とは受け取る点である」




原始仏教においては、外界の現象(色)が自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)を経由し、心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)に到達するという捉え方をする。
受け取る働きであり点であるとすると、「この心」については、対外的な証明の必要はなくなる。
様々な脳と心の関係も全てクリアすることになる。
一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能となるが、全ての問題を受け取る働きである心から逆算した捉え方をすることができる。

心とは何か
有と無を抽象化した空のような透明。苦楽の両極端、あえて極端にいくと、その限界や本質が見えてきたりする。そしてそれは透明的である。快楽と苦しみの間にいるのは中間であり、その両極端を知り、見極め、さらに先に行く。すべてを包括するという抽象性を持ち可能性として全てを含むような透明、白ではない空白、まっさらな空間のような地点が最高の到達地点である。

白と黒の先にある透明へ
色受想行識の内の行と諸行無常の関係性。
仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は五蘊と表現され、経典においても色受想行識、五蘊盛苦としてよく出てくる。これは体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚などを発端とし、現象をこころが受け取るプロセスについて表現している。諸行無常の「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分になる。
諸行無常(仏教)
四苦八苦という苦しみの分類にしても哲学としての領域となる。
単に苦しみの分類をしたというだけでなく、苦しみの生起と消滅、そして苦しみの原因を細かなところまで考察して哲学的に捉えているものが四苦八苦の概念である。
諸法無我は、哲学的な理解を要する。アートマン(我)の否定といった史実的な側面の理解ではなく、哲学的な理解として諸法無我だけでなく諸法非我という表現から理を掴む必要がある。「全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無い」というとき、無いというよりも「ならざるもの」という非我から理解するほうが良いかもしれない。
哲学的感覚に慣れた人でないと言語の字義的解釈では諸法無我の理解は難しいかもしれない。
ソクラテス的な無知の知は、答えの行き詰まりを知っているという一種の気づきであり、哲学的な到達点の不完全性を示すようなものであるが、その先に不可知を理由に神学的な自己欺瞞に走るのは誤謬であると言わざるを得ない。
何かしら宗教的な信仰は、心底の納得ではなく、納得しようとしているという構造を持っている。
仏教の生苦は生きることそのものの苦しみ。



基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。

「生苦」生きる苦しみ
生兵法は大怪我のもとである。




修辞学や詭弁のあり方から見れば、安易なツッコミのようなものがいかに生兵法であり、論理的卑怯さを含んでいるかがよくわかる。修辞学(レトリック)・雄弁術は、誰かを説得するための技術であり、論理や事実を中心とした説得だけが有効というわけではでなく詭弁や誤謬も技術として用いられる。

修辞学(レトリック)上の詭弁


定義を曖昧にしたまま、主張を作っている形になっていて定義付けや論証という手間を相手に任せているというようなものが多い。定義と要件と効果を把握せずに主張をつくる生兵法などがよくあり、修辞学的に見れば初歩にも満たない。詭弁にすら到達していないという場合も多い。

生兵法とレトリック

詭弁は、命題の証明に誤っている論理展開が用いられている推論である。説得を目的として論理展開されるが正しいと思わせるように仕向けた話し方であるが、そうした詭弁の域にも達しない幼稚な論理展開がよく見受けられる。論理的演繹すら破綻しているようなものである。
立証責任の転嫁の構造があるような物言いが多い。
あいまいな蓋然性が絶対性を求める思考を混乱させる。蓋然性は確からしいかどうかを示すものになるため、社会における決定には使えるが、確実なものを求める哲学的思索においては混乱の原因となる。哲学的領域、哲学的問いと蓋然性のもつあいまいさは苛立ちすら生み出してしまう。瞬間ごとの現象として考えると厳密な意味での証拠は成立し得ない。社会的な領域では、蓋然性の問題が持ち出され、ある程度の確からしさで特に問題は起こらない。
唯物論は仮観の世界観である。
中観における仮観と空観の世界観のうち仮観の捉え方ということになる。
思考上でその可能性を模索するということはいいが、空観を否定することはできない。
空観を否定することはできないことをもって、仮観の絶対性は否定される。
よって唯物論が絶対であるということにはならない。

唯物論
自分がこだわりを持つものは、全て意識的なものか無意識的なものかを問わず記憶で作られています。いろいろな意図は無意識レベルで形成されています。遺伝子レベルを含めた情報の集合体が自我ということになりますが、表面的な意識だけでなく、この意識が気づかない部分にある記憶等々も含めていわるる「自分」ということになります。無意識の状態が同調によって周りに影響を与えるということがあります。

そうした無意識的動作や無意識的選択の習得の影響は凄まじく、とりわけ「誰からも指摘されず特に問題にならないこと」であればあるほど、幼少期に保護者や兄弟姉妹などから得た影響が残っていたりします。

意識的操作を超えたもの
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