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哲学 philosophy
合意のために抽象的なことを具象化する必要が生じる場合があるが、そのために元の意からは外れてしまうことが起こる。そして合意のために、観念がぐらつく。よって、内側の思考においては、合意を除外しつつ理性を保つ必要がある。
曖昧に抽象的なまま語ると妄想に見える。だからこそ語る時は具象化が必要になる。
(具象とは具体。はっきりした姿・形を備えていること)
ただ、具象化すれば意味が変わってしまうことがあり、限定が入る。
その影響で観念自体を変化させないということが重要となる。

合意と具象
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願望の定義と不足。


「願ってその実現を望むこと」というのが一般的な願望の定義となるようだが、比較的ポジティブに「不足に気づくこと」が願望の本質的な定義である。
意識的に「望んでいる」ということは、今現在無いという認定であり、かつ、それが自分の幸福感にとって不足している対象だと考えていることになる。
つまり不足が願望の正体である。


願望とは何だろう!
曙光

曙光』(1881年)において、ニーチェは「力の感覚」を強調する。道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判も完成した。曙光のアフォリズム集でニーチェが求めているのは、自らが特殊な体験を得ることであるかのようにみえる。曙光のアフォリズム 曙光第一書 曙光第二書
ニーチェは、その著書に随所にアフォリズムを用いた巧みな散文的表現が多く、これには文学的価値も認められる。
ここにコップはありますか?というような質問に対して、「イケアのコップがある」「そこに一つだけある」とかいうのは聞かれてもいない属性を勝手にくっつけているだけで純度は低いというようなことは直ぐにわかりますが、世間ではよくあるような光景です。そこで、「あります」というような答えが純度の高いような答えに見えますが、それは物事を純粋に見ているわけではありません。そこで普段は「答え」に対して正解などを定めたりしますが、その答えの手前にどんな理由のもとそういう答えになったのか、というようなことを考えてみましょう。「純粋な精神」の偏見 プラトンとイデア

心理学一覧


アフォーダンス理論

アフォーダンス理論とは、環境が動物に対して与える「意味」のことであり、動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの。

» アフォーダンス理論

アンダーマイニング効果(過正当化効果)

アンダーマイニング効果(過正当化効果)は、内発的動機づけによる行為に対して、報酬を与えるなどの外発的動機づけを行った場合、やる気がなくなっていくという「やる気低減現象」。

» アンダーマイニング効果

エスカレータ効果

エスカレータ効果は違和感の一つ。止まっているエスカレータを降りるとき、足が重くなったような感覚をいう。

» エスカレーター効果

暗黙の強化

暗黙の強化とは、3人くらいでいる時に、誰かが自分以外の人を褒め出した時に、自分の自尊心が傷つけられた、つまり極端に言えば攻撃されたように感じ、自分以外の人を貶し始めたら、自分の評価が上がったように感じてしまう、「アイツ」の錯覚です。

» 暗黙の強化

抜粋


倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。

風習とは、しかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。

風習の倫理
狂気という言葉は、「みんながやっていないことをやっている」という意味で、常識はずれの範疇にあります。その常識はずれの中でも自分に害がありそうなものは狂気になり、自分の利益になりそうというようなことは偉業などと言われたりします。 道徳というものに採用される時に、根拠はよくわからないものの、まあいいか、特に悪いことではない、というようなことが基準になります。狂気とは
確かに自分には危害が特にはないので、どうでもいいことといえばどうでもいいことですが、それを道徳として認めているのは「世間が認めているから」というような前提が少しでも残っているならそれが自分を苦しめるフィルターの一つである、ということです。
すべて形成されたものは苦しみであるというのが一切行苦であり、一切皆苦と表現すると、意味がわからなくなる。また、一切皆苦・一切行苦の苦は「ドゥッカ」であり、日本語の苦とはニュアンスが異なるので注意が必要である。普段使用する漢字の意味やイメージを元に「苦」を捉え、単純に「苦しみ」と捉えてしまうと変なふうにとらえてしまう。
一切皆苦・一切行苦

やらされている

ただ環境にやらされているだけであり「やらされて、それをこなして、それで何になるのか」という虚しさは延々と続く。
諸法無我はパーリ語でsabbe dhammā anattāと表現される。このうち、諸法無我の法はダンマであり、それは概ね法則、理、真理を意味する。すぐに再現可能で確認可能な法則のことが真理であり、諸法無我の法はそうした「真理」を意味する。
諸法無我は複数の意味を示しており、理解しがたい。

諸法無我とアートマン
諸行無常とは、一切の形成されたものは固定的ではないという意味であり、その諸行の行は、形成作用と言う意味を持つ。よって、万物とかすべての物事という表現は間違いとは言わないが、定義が不足している。
常に生滅を繰り返す因と縁によって生ずるすべての現象を捉えること、心で印象を得るということを見逃してはならない。

諸行無常(仏教)
唯物論はあくまで観念論の対義語としての位置づけにあるものであり、神的なものを否定するというものではない。 日本では神や霊魂の否定の意味かのように捉えている愚者がいる。 そうした意味で唯物論という概念があるわけではない。 根本的に唯物論には欠陥があり、ココロというものをどう取り扱っているのかを説明できていないという根本問題があるというだけのだ。
ニーチェが言いたかったのはおそらく「ルサンチマンは生を否定する」という点だろう。
強者への僻みを持ちながら強者になろうという意志を否定し、堪え忍ぶことを美徳とするのはおかしいというようなことになるだろう。
ルサンチマン(ressentiment)
一時期流行った”自分探し”ってやつは、何も都合良すぎる自分を探し求めることではなくて、自分に向いている場所を見つけることだった。それには極力、”自分”ってやつを無くしていけば向いている場所も増えるっていう至って単純な話。自分をなくそうと思うと、自分を意識してしまいがちになります。何かにとらわれないでおこうと思えば思うほど力んでしまって、結局意識からは離れてくれないものです。「強いて言えば、これ」だったものがいつしかそれにばっかり気を取られて、知らぬ間に執着しているものです。それに出会った時は「どちらかといえば」レベルだったものが、知らぬ間に「これじゃなきゃ嫌だ」ということになったりしています。しかし、思い返せばそれに執着する根拠はどこにもありません。
さよなら私 さよなら私 改自分なくし 改 始めと終わり 改 ないものねだり 改 モテないが正しい 改
五蘊盛苦・五取蘊苦の五蘊(ごうん)とは、色受想行識。それぞれ色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊である。
五蘊盛苦・五取蘊苦の盛、取は、執著を示す。

四苦八苦のうち最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦
「老いる苦しみ」は、老いていくことを想起する苦しみであり、老いそのものよりも若さへのおごり、若き日への執著。老苦とよばれる。

老いていくことを想起する苦しみ
「現在も未来も過去の延長だろう」というのが普通の感想ではあるが、本来因果律は過去に基づいて未来が決定されているのではなく、今の意識の向きが未来を作り、それが現在にやってくる。過去の延長に思えるという印象の構造を分解すると「今の意識の向きが過去に基づいているから」という感じになり、過去に基づいているにしても、「過去のどの部分に重要性をおいているか」という配置や順番も関係している。
 
「今の意識の向き」は瞬間で変化しているが、過去のどの部分に重要性をおいているか」という状態が狭い幅である程度固定化されています。
しかし、実は「今の意識の向き」は、本来そうしたものに依存していません。もっと柔軟に変えることができる。そしてそれは観察によって変化する。
 
「今の意識の向き」として、何を観察すればよいのか?
 
それは「自我では想像もできない最高の状態を観察する」というのが正解であり、構造上、裏を返せば「自我を手放せば自動的にそちらに向く」ということになる。
常に空である全宇宙・全可能性の中はいる。ただ、今の意識の向きによって絞り込みが行われ、「心がその状態をただ受け取っている」というような感じになっている。
手放し対象となる自我とは「自分と関係しているものの集まり」であり、通常は、空である全宇宙・全可能性の中から「自分と関係しているもの」という絞り込みがなされている。そこから「自分と関係しているもの」を外し、空と統合すると、全宇宙、全可能性の中に「心」が移る。

人の尊厳と可能性

本能的なものというのは無駄がなく知性的です。

ニーチェがそんなことを言っていました。

純粋に本能的なものほど、知性を感じたりします。

「モテるために、英会話をマスターしよう」というのは、実に遠回りで音痴のような気がします。

同様に、スリムになるために食事を制限するというのも、知性的ではありません。

「今日起きたのは7時、この起きている時間で、あの時にこれだけ、さっきはこれだけ体力を消耗した、摂取した栄養素はこれこれで、なになにが不足しているが、今の所は許容値、ひとまず11時までには寝るべきだ」などとわざわざ計算せずとも眠くなって勝手に寝ます。純粋な知性

宗教方式の説得による安らぎの理屈は部分的な解消にしかならない。それはごまかしとも言えるだろう。



宗教団体や何かしらの社会的目的を持ったような謎の群れを含め、よく観察するとそれらコミュニティによる安らぎ感は、一種の錯乱や群によって感情的な騒ぎがマシになるというだけで、問題については何の回答も示していないと言う場合が多い。群れていれば不安や孤独感を紛らわすことができる、そして紛らわせ続ければそれは幸せとイコールであるというような、突き詰めるとつじつまが合わないようなことであっても、権威ある形、多数決的な空気で示されると納得してしまうのは、それだけ思考の程度が低いからということになっている。
しかしそんな理屈で納得できるようなタイプではない者もいる。
社会的な属性を持った理屈が全く意味をなさない哲学的問い、論理的な迷妄の内にあるものには戯言にしか映らず、また、一般にもそうした宗教的説得による安らぎの理屈はさらなる論理的迷妄を生む。
感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁
我思う故に我あり、これはコギトエルゴスムの日本訳である。



デカルトの方法序説に出てくるコギトエルゴスムの概要としては、目をなくしても、鼻をなくしても、五感を全てなくしても、結局「考えている自分」というものから「自分」というものは切り離せないというようなこと。デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していったとされる。
コギト エルゴ スム
一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明であるとする命題である。コギト命題。

形而上学的パッケージプラン

目に見えない領域のことについて、数ある可能性の中から、有名な書物を用いて確定させていくのが、世の宗教ではないでしょうか。「考えても仕方ないよ」ということで、「まあこういうことだから」という感じで、考えてしまう思考の部分を落ち着ける作用があります。方便という言葉があります。本当のことをいきなりいったところで、理解できないから、仮のたとえでひとまず落ち着けるというやり方です。本当はどうでもいいことについて、「どうでもよくない!」と躍起になっている人をひとまず落ち着かせるためのものです。その方便を本気で信じている人たちがいます。信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。

形而上学的パッケージプラン
メタフィジック(metaphysics)
非常にわかりにくいですが、五感の情報は外からの情報を感知する機能によって意図とは別に、感じてしまいます。じゃあ自分が考えているというのは外の現象に左右されていないのかというと、それもすべて外部の情報に依存してしまいます。記憶も癖も考え方のパターンも「何もないところからいきなり現れたもの」というのは考え難いと思います。教育や他とのコミュニケーションによらず、本能としてあらかじめ組み込まれていたとしても、自分が作り上げたものではありません。じゃあ「私の考え」とは、一体なんなのでしょうか。「私は考えている」というのも、もっと適切に言えば「考えさせられている」とも言えますし、「外からの情報によって自動発生している」とも言えます。かと言って、外の現象(―による情報)の出発点が「人間より上位の存在」というのは、妄想の域を出ません。

コギトエルゴスム

客観の誤謬

客観視する、というのはどう転んでも、外側で起こっていることを認識できる間口は「主観」しかありえないのに、それを自分以外のところで起こっている何かとして、「自分の中」でイメージしていることにほかならない。外で起こっていることを純粋に客観的に「存在している」と認めるのは「主観」でしかないはずで、「客観的」という属性を帯びた主観でしかないことは明白である。

時間と主観

なぜ、人を殺してはいけないか

なぜ、人をいじめてはいけないのか

という命題にまともに答えたのは大勢いるように見えて、確認できるのは実は数人しかいない。

まともに、というのは、それ以外にもたくさんこの疑問に答えようとしたものはいるが、一応の詳しい論証はしていても、前提が具体的すぎる、すなわち途中からしか考えていない、というものである。

なぜ人をいじめてはいけないのか

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