心理学一覧
抜粋アフォーダンス理論
アフォーダンス理論とは、環境が動物に対して与える「意味」のことであり、動物と物の間に存在する行為についての関係性そのもの。
アンダーマイニング効果(過正当化効果)
アンダーマイニング効果(過正当化効果)は、内発的動機づけによる行為に対して、報酬を与えるなどの外発的動機づけを行った場合、やる気がなくなっていくという「やる気低減現象」。
エスカレータ効果
エスカレータ効果は違和感の一つ。止まっているエスカレータを降りるとき、足が重くなったような感覚をいう。
暗黙の強化
暗黙の強化とは、3人くらいでいる時に、誰かが自分以外の人を褒め出した時に、自分の自尊心が傷つけられた、つまり極端に言えば攻撃されたように感じ、自分以外の人を貶し始めたら、自分の評価が上がったように感じてしまう、「アイツ」の錯覚です。
確かに自分には危害が特にはないので、どうでもいいことといえばどうでもいいことですが、それを道徳として認めているのは「世間が認めているから」というような前提が少しでも残っているならそれが自分を苦しめるフィルターの一つである、ということです。
一切皆苦・一切行苦
やらされている
ただ環境にやらされているだけであり「やらされて、それをこなして、それで何になるのか」という虚しさは延々と続く。諸法無我は複数の意味を示しており、理解しがたい。
諸法無我とアートマン
常に生滅を繰り返す因と縁によって生ずるすべての現象を捉えること、心で印象を得るということを見逃してはならない。
諸行無常(仏教)
修辞学と詭弁と生兵法 アリストテレスによる弁論術(修辞学)では、以下の三種類が挙げられている。 「話し手の人柄にかかっている説得」 「聞き手の状態・感情に訴える説得」 「言論そのものにかかっている説得」
強者への僻みを持ちながら強者になろうという意志を否定し、堪え忍ぶことを美徳とするのはおかしいというようなことになるだろう。
ルサンチマン(ressentiment)
一時期流行った”自分探し”ってやつは、何も都合良すぎる自分を探し求めることではなくて、自分に向いている場所を見つけることだった。それには極力、”自分”ってやつを無くしていけば向いている場所も増えるっていう至って単純な話。自分をなくそうと思うと、自分を意識してしまいがちになります。何かにとらわれないでおこうと思えば思うほど力んでしまって、結局意識からは離れてくれないものです。「強いて言えば、これ」だったものがいつしかそれにばっかり気を取られて、知らぬ間に執着しているものです。それに出会った時は「どちらかといえば」レベルだったものが、知らぬ間に「これじゃなきゃ嫌だ」ということになったりしています。しかし、思い返せばそれに執着する根拠はどこにもありません。さよなら私 さよなら私 改自分なくし 改 始めと終わり 改 ないものねだり 改 モテないが正しい 改
常に空である全宇宙・全可能性の中はいる。ただ、今の意識の向きによって絞り込みが行われ、「心がその状態をただ受け取っている」というような感じになっている。
人の尊厳と可能性
本能的なものというのは無駄がなく知性的です。
ニーチェがそんなことを言っていました。
純粋に本能的なものほど、知性を感じたりします。
「モテるために、英会話をマスターしよう」というのは、実に遠回りで音痴のような気がします。
同様に、スリムになるために食事を制限するというのも、知性的ではありません。
「今日起きたのは7時、この起きている時間で、あの時にこれだけ、さっきはこれだけ体力を消耗した、摂取した栄養素はこれこれで、なになにが不足しているが、今の所は許容値、ひとまず11時までには寝るべきだ」などとわざわざ計算せずとも眠くなって勝手に寝ます。純粋な知性
宗教団体や何かしらの社会的目的を持ったような謎の群れを含め、よく観察するとそれらコミュニティによる安らぎ感は、一種の錯乱や群によって感情的な騒ぎがマシになるというだけで、問題については何の回答も示していないと言う場合が多い。群れていれば不安や孤独感を紛らわすことができる、そして紛らわせ続ければそれは幸せとイコールであるというような、突き詰めるとつじつまが合わないようなことであっても、権威ある形、多数決的な空気で示されると納得してしまうのは、それだけ思考の程度が低いからということになっている。
しかしそんな理屈で納得できるようなタイプではない者もいる。
社会的な属性を持った理屈が全く意味をなさない哲学的問い、論理的な迷妄の内にあるものには戯言にしか映らず、また、一般にもそうした宗教的説得による安らぎの理屈はさらなる論理的迷妄を生む。
感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁
デカルトの方法序説に出てくるコギトエルゴスムの概要としては、目をなくしても、鼻をなくしても、五感を全てなくしても、結局「考えている自分」というものから「自分」というものは切り離せないというようなこと。デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していったとされる。
「コギト エルゴ スム」
一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明であるとする命題である。コギト命題。
形而上学的パッケージプラン
目に見えない領域のことについて、数ある可能性の中から、有名な書物を用いて確定させていくのが、世の宗教ではないでしょうか。「考えても仕方ないよ」ということで、「まあこういうことだから」という感じで、考えてしまう思考の部分を落ち着ける作用があります。方便という言葉があります。本当のことをいきなりいったところで、理解できないから、仮のたとえでひとまず落ち着けるというやり方です。本当はどうでもいいことについて、「どうでもよくない!」と躍起になっている人をひとまず落ち着かせるためのものです。その方便を本気で信じている人たちがいます。信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。
形而上学的パッケージプランメタフィジック(metaphysics)
非常にわかりにくいですが、五感の情報は外からの情報を感知する機能によって意図とは別に、感じてしまいます。じゃあ自分が考えているというのは外の現象に左右されていないのかというと、それもすべて外部の情報に依存してしまいます。記憶も癖も考え方のパターンも「何もないところからいきなり現れたもの」というのは考え難いと思います。教育や他とのコミュニケーションによらず、本能としてあらかじめ組み込まれていたとしても、自分が作り上げたものではありません。じゃあ「私の考え」とは、一体なんなのでしょうか。「私は考えている」というのも、もっと適切に言えば「考えさせられている」とも言えますし、「外からの情報によって自動発生している」とも言えます。かと言って、外の現象(―による情報)の出発点が「人間より上位の存在」というのは、妄想の域を出ません。
コギトエルゴスム
客観の誤謬
客観視する、というのはどう転んでも、外側で起こっていることを認識できる間口は「主観」しかありえないのに、それを自分以外のところで起こっている何かとして、「自分の中」でイメージしていることにほかならない。外で起こっていることを純粋に客観的に「存在している」と認めるのは「主観」でしかないはずで、「客観的」という属性を帯びた主観でしかないことは明白である。
時間と主観
なぜ、人を殺してはいけないか
なぜ、人をいじめてはいけないのか
という命題にまともに答えたのは大勢いるように見えて、確認できるのは実は数人しかいない。
まともに、というのは、それ以外にもたくさんこの疑問に答えようとしたものはいるが、一応の詳しい論証はしていても、前提が具体的すぎる、すなわち途中からしか考えていない、というものである。
普通はニーチェのいうニヒリズムに関しての解説から入るところでしょうが、そんなことはしません。そんなことは検索すればすぐに出てきます。ニーチェがあ る意味でキリスト教に囚われていたように、現代の解説者はニーチェに囚われすぎています。ニヒリズムという言葉自体の発端がその辺なのである意味では仕方 ないことです。しかし、虚無というところから考えていきましょう。ニヒリズム
ニヒリズムは虚無主義とも。過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場。あらゆる存在に価値を認めない考え方。虚無主義。..物事の意義や目的といったものは存在しない、自分の存在を含めて全てが無価値とする。
ニヒリズム・虚無主義

ニヒリズム(虚無主義)は、あらゆる存在の客観的価値を否定し、宗教・道徳・権威を否定する考え方で、消極的ニヒリズムは、世捨て人のような立場であり、積極的ニヒリズムは、価値が無いのなら自分で価値を生み出そうという立場。何をやっても何にも価値が無いのだから、消極的に受動的に生きていこうという発想、これが消極的ニヒリズム、受動的ニヒリズム。積極的ニヒリズムは、「絶対的で本質的な価値が無いなら、自分でその価値を作ってしまえ」というようなもの。虚無主義とは『物事の意義や目的は存在しない』とする考え方。意義、目的、理解できるような真理、本質的な価値を認めないことで逆に、なんでもありだと考えるのが積極的ニヒリズムである。
philosophy 哲学
Dive into Myself
各論的に学んでいくことで「どのように卑怯なのか?」ということも理解できる。
しかしながら学ばなくても、相手の発言の構造を見抜こうとする姿勢さえあれば、自然と身につく分野でもある。
修辞学と詭弁と生兵法
日常では非常に苦労することやたいへんな苦しみ、非常に苦労するといったことを意味する四苦八苦だが、本来は生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみといった「生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみで根本的な苦しみを意味する。
四苦八苦 あらゆる苦しみ