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哲学 philosophy
諸行無常は哲学的な考察の元の理であり、法則の事を意味するが、時に情緒的に語られることがある。とりわけ対人関係の話題や社会的な流れについて諸行無常という言葉が使われる。
しかし、諸行無常の示すところは、そうしたマクロ目線の流れの変化だけでなく瞬間的なものを意味し、時間の存在すらも否定するようなものである。
諸行無常の諸行は「すべてのもの」とされがちだが、物ではなく、意識や心の形成作用のことを意味する。諸行無常

「モノ」ではなく「プロセス」:サンカーラの正体

まず、「諸行(しょぎょう)」という言葉の誤解を解く必要があります。多くの人はこれを「諸々の事物(Things)」と解釈し、「形あるモノはいつか壊れる」という意味で捉えます。しかし、原語である「サンカーラ(行)」は、名詞的な「物体」ではなく、動詞的な「形成作用」や「意志的エネルギー」を指します。 それは「作られたもの」であると同時に、「作る力」でもあります。 私たちが「コップがある」と認識する時、そこには物理的なコップが客観的に存在しているだけではありません。視覚情報を受け取り、過去の記憶と照合し、「これはコップである」とラベリングし、さらに「水を飲むためのもの」という意味付けを行う一連の高速な情報処理(形成作用)が働いています。 諸行無常とは、コップがいつか割れるということだけを言っているのではありません。この「コップとして認識・構成し続けている心のエネルギー(サンカーラ)」自体が、一瞬たりとも留まっていないという事実を指しています。 世界が変化しているのではなく、世界を構成しようとする私たちの「作用」が、点滅するように明滅しているのです。

映画フィルムとしての現実:連続性の錯覚

ここで「時間の存在すらも否定する」という視点が浮上します。 私たちは時間が過去から未来へと連続して流れていると感じています。しかし、諸行無常の極致である「刹那滅(せつなめつ)」の思想においては、時間は連続体ではありません。 映画のフィルムを想像してください。スクリーン上の映像は動いているように見えますが、実際には静止画(コマ)の連続に過ぎません。1秒間に24コマの静止画が、高速で切り替わることで「動き(時間)」という錯覚が生まれます。 現実もこれと同じです。 私たちの意識は、一瞬(刹那)ごとに「生じて(生)、留まり(住)、消える(滅)」を繰り返しています。前の瞬間の意識と、今の瞬間の意識は、因果関係はあっても全く別のものです。 本来、世界はデジタル信号のように「ON/OFF」の離散的なデータの羅列でしかありません。しかし、私たちの脳(記憶と認知機能)が、そのコマとコマの間の断絶を勝手に補完し、「私」という同一人物が時間を超えて存在しているかのような、滑らかなストーリーを捏造しています。 「諸行無常」とは、この脳内補完機能を解除し、世界を「コマ送り」のまま直視することです。そこには「流れる時間」など存在せず、ただ独立した「瞬間」の明滅があるだけです。

情緒の入り込む余地はない:ドライな物理法則

このように理解すると、諸行無常に対して「儚い(はかない)」「寂しい」と感情的に反応することが、いかにピント外れであるかが分かります。 モニターのリフレッシュレート(画面の更新頻度)が60Hzであることに対して、「儚い」と涙する人はいません。それは単なるシステム上の仕様であり、物理法則だからです。 諸行無常もまた、この宇宙(および私たちの意識)の「リフレッシュレート」の記述に過ぎません。「無常であること」自体は、善でも悪でも、悲劇でもありません。それは単に「データは常に書き換えられ続けている」というドライな事実です。 情緒的な無常観は、「変わらないでいてほしい」という執着(渇愛)と、現実の変化との摩擦から生じる「二次的な反応」です。しかし、本来の無常の理(ことわり)は、その執着が成立する土台(時間や自我)そのものを解体してしまうため、そこには嘆くべき主体も、嘆く対象も存在しなくなります。

「瞬間」への回帰と、重荷の消失

時間が存在せず、意識の形成作用(サンカーラ)が瞬間ごとに完結しているならば、私たちは過去の重荷を背負う必要がなくなります。 「私はかつて失敗した人間だ」という悩みは、「過去の私」と「今の私」が連続しているという前提(時間の錯覚)の上に成り立っています。しかし、諸行無常の視点では、失敗した瞬間の意識(サンカーラ)は既に消滅しており、今ここにいるのは、新しい因縁によって生じた全く新しい意識の作用です。 私たちは、常に「毎秒、生まれ変わっている」のではなく、厳密には「毎瞬、死んで、毎瞬、全くの別人として発生している」のです。 この「瞬間的な切断」を深く理解した時、カルマ(業)やトラウマといった概念もまた、変容を迫られます。それらは魂に刻まれた消えない傷ではなく、単に「条件さえ揃えば再生される記憶データ」に過ぎなくなります。条件を変えれば(あるいは再生ボタンを押さなければ)、その形成作用は起こりません。

創造的なカオスとしての無常

諸行無常を「社会の衰退」や「別れの寂しさ」として読むのは、あくまで文学的な鑑賞です。 哲学的な、あるいは実践的な理解において、諸行無常は「圧倒的な自由」と「創造性」の源泉となります。固定された実体がない(形成作用しかない)からこそ、私たちは次の瞬間の世界を、新しい意志と条件付けによって、全く別の形に再構成することが可能です。 「諸行(心の形成作用)」は、常に更新待ちの状態です。 安定しないということは、決定していないということです。 「すべては移ろいゆく」という事実は、私たちから安住の地を奪いますが、同時に、私たちを「過去の檻」から毎瞬ごとに解放し続けてくれているのです。この瞬間ごとの崩壊と再生のダンスこそが、生命の、そして意識の、本来の姿なのです。
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