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哲学 philosophy
不殺生と不殺生戒(ふせつしょうかい)


仏教の戒律とは、悟りを求める修行に於いて自発的に守ろうとする戒めのこと。不殺生戒は仏教用語であり、戒律に規定されたことで、生物の生命を絶つことを禁止し不殺生戒を犯して生き物を殺すものは、僧伽では最も重い波羅夷になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。

不殺生戒(アヒンサー)


不殺生戒(アヒンサー)についてこれは一応、仏教者が守るべき五戒のうち、最も重要だとされている戒めであり、「生き物を殺してはならない」というもの「命あるものを殺すな」という不殺生とは、その様な仏の慈悲心を生活の中で実践して生きていこうとする具体的な生活規範。仏教の戒律のなかで不殺生戒(ふせつしようかい)はもっとも重いので、一般俗人も仏教の信仰に入れば、これを犯さない誓いを立てた。不殺生、不傷害はインド宗教一般の重要な思想の一つで、ヴェーダの一部をなすウパニシャッド、ジャイナ教においても不殺生戒の概念は見られた。五戒の中の不殺生戒、つまり「生き物を殺してはいけません」ということが語られていた当時、「植物は生き物ではない」というのが一般的だった。

仏教の不殺生戒


しかし仏教上の不殺生戒では大小を問わず動植物一切の生類の殺害を禁止している。仏教においても、最初期の仏教に不殺生の思想がみえ、修行者の守るべき五戒の中の重要な戒に含まれている。大乗仏教もこの不殺生を絶えず説く。中国、日本の仏教においても不殺生・不殺生戒が重要なことは疑いの余地はない。 しかし実生活で殺生をせずには生きられない。徹底して不殺生を実践したら何も食べられなくなるのになぜ、釈迦は不殺生戒を定めたのだろう?

不殺生戒
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無限にある既に形成された状態と心。

無限にある既に形成された状態と心

無限の全状態は、常にあります。常に空間はそうした無限の状態の混沌です。
一般に無限といっても、自我の上ではどこかしら具体的な制限があり、その中で数量的な無限があるというような印象を受けてしまいます。そこで「ない」という概念が生まれます。しかし全状態が無限にあるのだから、「ない」というものは成り立ちません。


既にあるものと心
人は自らの価値基準に従って、その価値基準に合致しない人は排除しようとする傾向があります。
しかしその排除は合理的なものというよりも、優越感であり、解釈変更によって「自らを尊い存在だと思いたい」ということの表れです。自尊心ですね。 そこには一種の虐げられた奴隷精神からの「復讐」のような動機も内在しているのかもしれません。そしてそこには優越感という快感があるということでしょうか。 この快感は、自分で決めて、自分で勝手に「勝った」と思っているという自作自演ゲームです。
解釈変更による「復讐」の快感
無主義者・ニヒリストとは、ニヒリズムに陥っている人たちのこと。ニヒリズムは、物事の意義・目的・価値存在せず、自分の存在を含めて全てが無価値であるとする立場であり、消極的ニヒリズムと積極的にニヒリズムといった概念がある。
悟りの境地としての涅槃(Nirvana)は解脱と表現されることがあるが、そう表現すると誤解を生みやすい。仏教においては煩悩を滅尽して悟りの智慧の完成の境地が涅槃であり「悟り」と呼ばれる。インド・ネパール地方の他のバラモン系の概念とは異なるので注意が必要である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
諸行無常(仏教)、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないこと。「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」
一般的な諸行無常について、大まかに定義すると、「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」
といった感じです。諸行無常はこの世の万物は常に変化してとどまるものはないこと。人生の無常をいう仏教の根本的な考え。一切は変化し続け、過ぎ去っていくというのが諸行無常。

「諸行」は、この世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。三法印、四法印のひとつ。諸行無常は、この現実の世界のあらゆる事物は直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので絶えず変化し続永遠のものではないということ。



しかしながら諸行無常はそうした現象や物質そのものを指すものではありません。「形成作用」や「形成されたもの」という意味を持ちます。諸行無常の解説の多くは、諸行無常の「諸行」に対し、諸々の物や出来事、つまり現象という感じで捉えられていますが、さらに厳密に考えた場合、諸行無常の行は対象を捉える時の意識の形成作用を意味し、形成されたものを意味します。
よって諸行とは全ての形成されたものという意味です。

諸行無常 諸行無常(しょぎょうむじょう)は、諸法無我(諸法非我)や一切行苦(一切皆苦)、涅槃寂静とともに、三宝印、四法印としてよく合わせて語られます。そのうち諸行無常はありとあらゆるものは変化しているという事実を意味し、その変化の対象は客観的な世界だけでなく、己の認識や、己の動機、己の目線など自分の内側ですら常に変化しているということを意味します。一切の形成されたもの対象に自分も含まれているということです。そして、それゆえに関連性の中で今成り立っているにしか過ぎず自分に実体はないという諸法無我につながっていきます。
対人関係と諸行無常 色受想行識と諸行無常
仏教上の「老苦(ろうく)」つまり「老いる苦しみ」は、老いていくことを想起する苦しみであり、老いそのものよりも若さへのおごり、若き日への執著が老苦の中心概念である。



老苦の中には老化による体の不調というものも含まれつつも、過去の出来事、過去の自分の状態に対する執著、「思い通りにならない」という精神的執著のほうがその概念の根幹を示している。

「老苦」老いる苦しみ
涅槃寂静と解脱は異なるものである。悟りの智慧の完成であり、脱するというものは印象にしか過ぎない。

涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
涅槃寂静は頭で理解するものではないが、哲学的思索を繰り広げることはできる。
何が涅槃寂静ではないか、何が涅槃ではないかということを思考上で理解することはできる。
哲学的に検討するだけでも涅槃の解釈として「死ねば涅槃に入る」ということが誤謬であることが理解できる。
ただ、涅槃寂静を一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」という定義から検討するよりも、哲学的直感によって気づくというのが本来のプロセスである。
利他主義は、利己主義の対義語で自己の利益よりも、他者の利益を優先するという主義。
「利他主義」の原因ということですが、利他主義はもちろん利己主義の対義語としての概念を持っています。
利他主義と、利他主義の対義語としてのは利己主義について
利他主義の原因
利己主義と比較して利他主義は美しく見えます、なぜなら、利己主義において蔑ろにされるのは利他主義者以外の人たちになります。一方で、利他主義であれば利を与えてもらえる対象に自分が含まれる可能性があるからです。
利己主義とはその字のごとく。自己の利益を最優先し、他者の利益を軽視したり無視したりする考え方であり、利己主義はその対義概念となります。利己主義は、相手の利益を優先するという形になりますが、相手の利益を通じて有形無形を問わず自分の利益に繋がるという構造を持っているので、間接的になっているだけという構造もあります。
環境コントロールの結果であるかもしれない。そしてそれはマインドコントロールの一つの要素であることを忘れてはならない。また「望む場合はチェックを」から「望まない場合はチェックを」と表現を変えて数字の体裁を整えたところで、喜ぶのは役人か、役人のような人間だけである。 アフォリズム 1-10
五蘊盛苦・五取蘊苦と五蘊苦は異なる。五蘊に対する執著がドゥッカを生み出すというのが五蘊盛苦・五取蘊苦であり、五蘊苦は五蘊から生じる単なる刺激としての苦しみである。

四苦八苦のうち最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦


不殺生戒は仏教のみならず様々なところで戒めとして捉えらているが、この不殺生戒は哲学的に検討しても合理性を持つ。非暴力・不傷害、殺生を禁ずることを、戒めであるから守らなければならないと考えることは盲信となる。
そうではなく、戒めがこの心にとってどのように働くのか、意識の性質を哲学的に捉えて、幸福とは何かを哲学的に検討していくと、不殺生戒がもつ合理性が見えてくる。
あらゆる苦しみである四苦八苦のうち、最も哲学的なのは五蘊盛苦・五取蘊苦である。五蘊盛苦とは、「五種の執著の素因は苦しみをもたらす」「五種の素因への執著が苦しみを生じさせる」という意味。



五蘊(ごうん)とは、色受想行識であり、それぞれ色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊と呼ばれる。。この心が受け取る世界はこの五種で構成されており、これら五蘊は世界を作る素因であり構成要素。 五蘊盛苦の「盛」・五取蘊苦「取」とは、執著を意味する。よって、五取蘊は5つの構成要素に対する執著という意味になる。
五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)五種の執著の素因は苦しみをもたらす

六根「眼・耳・鼻・舌・身・意(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識)」の全てに五蘊が対応している。五蘊はこの心が受け取る世界を構成する要素。それぞれに「こうあって欲しい」という望みがあればそれが執著となる。そして、渇望を生み出し、苦が生じる。
五蘊に対して、思い通りにならないという不満足に対する執著を持ち、そして、執著により思い通りにならないという苦しみを得る。これが五蘊盛苦・五取蘊苦である。
この五蘊盛苦・五取蘊苦は四苦八苦の最後に出てくる。

苦しみや苦痛 四苦八苦(しくはっく)
一切皆苦(いっさいかいく)は、本来、一切行苦(いっさいぎょうく)と表現され、全ての形成されたものは苦しみであるという意味を持つ。パーリ語から考えると、諸行無常の諸行と一切行苦の一切行は同一の表現となっている。一切行苦とは、すべての形成されたものは苦しみであり、思い通りにならない不満や不完全としての苦しみを指す。色は苦なり、受想行識も苦なりと経典で表現される。

一切皆苦・一切行苦

一切行苦と諸行無常の「行」

行とは形成されたものを意味し、それは常に変化するとするのが諸行無常であり、それは同時に苦しみであるというのが一切行苦である。常に変化するその「形成されたもの」は、客観的な物理現象だけでなく、それを認識する心の状態も含まれる。それは気分から、物理的な物を視覚的に捉えるということまで全てを意味する。

一切皆苦・一切行苦の本意

宗教化した仏教においては、そうした哲学的な捉え方はされていない。死後の極楽などを苦の世界としたくはないため、この世を一切皆苦ということにしたいという意図が見える。自分の思い通りにならないという精神的な苦しみの原因が自我にあることを指すのが一切皆苦・一切行苦の本意である。

一切行苦(一切皆苦)
一切皆苦は一切行苦が正式な表現である。
暇や退屈、苦悩



生きている限り、たいてい欲か怒りに纏わりつかれ、それが静まっていても結局「暇」や「退屈」というモヤモヤしてどんよりとした苦悩がやってくる。
暇や退屈な時間は、たいてい思考がめぐり、嫌な記憶ばかりが思い起こされる。
そしてまた欲や怒り、不安等々がやってくる。
その思考を止めるため、思考を紛らわせるために、様々なものに依存し、それに汚染され、暇や退屈という状況から欲や怒りや不安が生じる思考がめぐり、その思考を紛らわせるために何かに依存する、という格好になっている。

暇や退屈という苦悩
「本当にすごいということは、そういうことではなく、こういうことだ」というような、「何かしらのすごいこと」という前提は認めるものの、その枠内で解釈を変えたりすることです。その解釈の変更も同属性のモノの中で解釈を変える手法から、別属性の「何かすごいこと」にすり替えるものまで変化は多様です。 それらはルサンチマンと呼ばれます。奴隷精神による解釈変更です。恨みや僻みを解消するために基準を変えて解釈変更して自尊心を満たそうとするようなことです。
底意とは心の奥に潜む考え。 ルサンチマンと呼ばれる奴隷精神による解釈変更 底意ある馬鹿げた畏敬~僻み 僻み・怨恨という感情の状態は、思考の中にそれに対する憧れや畏敬があるはずです。
ルサンチマンは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりしますが、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。

ルサンチマンを含まないニヒリズム

ルサンチマンも、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。では何のために解釈変更するのでしょうか。 何かが起こるときには何かの原因があります。人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。 そういった意味で紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。 そんな中で、「ルサンチマンを含まないニヒリズム」と言ったものが見えてくるでしょう。

力の感情 ルサンチマンを含まないニヒリズム
ルサンチマンは、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」、積極的ニヒリズムも本来はポジティブもネガティブもありません。
哲学の中心は抽象度の高い本質の追求にある。
現実への態度として、「現実が変わらないのであれば困る」という意見は自我の意見であり、現実を変えようとして「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。「現実を無視する」というと暴論のようですが、暴論ではありません。現実をただ観察するというのであれば問題はありません。

確認して苦悩が起こるなら無視して今楽になる方を選んでください。
現実を確認して起こる苦悩、苦悩の元である思考や判断を無視するということです。「なんとかなる」の状態になったら、不安・恐怖を伴う思考や妄想を無視する、かつ、現実を無視します、
何かに没頭していれば「自我」は出てこれなくなります。
現実を無視するということは、何かしらの問題に対して何の対策、対応もしてはいけないということではなく、逆に何もしなくても構いません。
何もしない方が楽なのであれば、何もしないということです。何かをした方が楽なのであれば、その何かを考えずに行うというような感じです。
その場その場で「心の安らぎにとって一番最適な選択をする」ということです。

現実を無視する
諸行無常は哲学領域の概念である。
「瞬間としての今の変化」と固定ということのありえなさ、そして記憶の連続性、執著の対象の本質を示すものが諸行無常である。「因」直接の原因、「縁」間接的な環境条件によって形成されたものは必ず変化するということを示す。
この諸行無常は、信仰的なものがなくても理解できる哲学的なものである。
諸法無我(しょほうむが)は、あらゆるものは因縁によって起こっており(縁起)、その中で固定的な「我」というものは無いという意味を持つ。直に訳すと真理の中で我は「我ならざるもの」という形になる。パーリ語ではsabbe dhammā anattā。
ダンマパダには
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」
と示されている。


諸法無我と諸法非我

諸法無我と諸法非我は同じだが若干のニュアンスが異なり、諸法無我は「我がない」というニュアンスだが、諸法非我は「我ならざるもの」というニュアンスである。
我がないということではなく、我も空ということを指すはずなので、諸法無我という表現は適訳ではないが、原始仏教が興った当時のバラモン・ヴェーダ文化の中では、魂を実在とし、真なる我(アートマン)が実在していると考えられていた。アートマンとは、ヴェーダの宗教における自我意識のない、意識の最も深い内側にある個の根源で「真我」と呼ばれる。それを否定するという意味合いもあって無我という概念が当てはめられたと考えるのが妥当だろう。
その根本原因としてバラモン・ヴェーダ・ヒンドゥーの宗教観・哲学では、魂=アートマン(真我。意識の最も深い内側にある個の根源)が実在し、ブラフマンと一体化することが悟り(梵我一如)であるとされていたことによる。諸法無我の意味するところには、ヴェーダの中の「アートマンは不滅」と考えられていた部分を否定するという要素も含まれている。諸法無我は通常、人間としての我は存在しないと解釈されるが、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がなく、無いというよりも有と無を抽象化した空であると解釈するのが妥当だろう。問題はその先にあるわれの実在感による我執であり、執着が苦しみを生むという点である。

諸法無我
ニーチェが得意とするアフォリズム(箴言)。 文学形式の一つであり、思考や観察の結果を簡潔に諧謔的に述べたもの。

アフォリズム(aphorism) なお、箴言とは狭義には旧約聖書中のものを指す場合があり、これは道徳上の格言や実践的教訓が記されている。
哲学的に考察する「心」。心とは一体何なのか?ということの答えは様々な尺度から考察することができるが、次のような定義を示すことができる。
「心とは受け取る働きである」「心とは認識する機能である」「心とは受け取る点である」




原始仏教においては、外界の現象(色)が自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)を経由し、心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)に到達するという捉え方をする。
受け取る働きであり点であるとすると、「この心」については、対外的な証明の必要はなくなる。
様々な脳と心の関係も全てクリアすることになる。
一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能となるが、全ての問題を受け取る働きである心から逆算した捉え方をすることができる。

心とは何か
有と無を抽象化した空のような透明。苦楽の両極端、あえて極端にいくと、その限界や本質が見えてきたりする。そしてそれは透明的である。快楽と苦しみの間にいるのは中間であり、その両極端を知り、見極め、さらに先に行く。すべてを包括するという抽象性を持ち可能性として全てを含むような透明、白ではない空白、まっさらな空間のような地点が最高の到達地点である。

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