哲学 philosophy
色受想行識の内の行と諸行無常の関係性。
仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は五蘊と表現され、経典においても色受想行識、五蘊盛苦としてよく出てくる。これは体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚などを発端とし、現象をこころが受け取るプロセスについて表現している。諸行無常の「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分になる。
諸行無常(仏教)
仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は五蘊と表現され、経典においても色受想行識、五蘊盛苦としてよく出てくる。これは体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚などを発端とし、現象をこころが受け取るプロセスについて表現している。諸行無常の「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分になる。
諸行無常(仏教)
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四苦八苦という苦しみの分類にしても哲学としての領域となる。
単に苦しみの分類をしたというだけでなく、苦しみの生起と消滅、そして苦しみの原因を細かなところまで考察して哲学的に捉えているものが四苦八苦の概念である。
単に苦しみの分類をしたというだけでなく、苦しみの生起と消滅、そして苦しみの原因を細かなところまで考察して哲学的に捉えているものが四苦八苦の概念である。
諸法無我は、哲学的な理解を要する。アートマン(我)の否定といった史実的な側面の理解ではなく、哲学的な理解として諸法無我だけでなく諸法非我という表現から理を掴む必要がある。「全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無い」というとき、無いというよりも「ならざるもの」という非我から理解するほうが良いかもしれない。
哲学的感覚に慣れた人でないと言語の字義的解釈では諸法無我の理解は難しいかもしれない。
哲学的感覚に慣れた人でないと言語の字義的解釈では諸法無我の理解は難しいかもしれない。
ソクラテス的な無知の知は、答えの行き詰まりを知っているという一種の気づきであり、哲学的な到達点の不完全性を示すようなものであるが、その先に不可知を理由に神学的な自己欺瞞に走るのは誤謬であると言わざるを得ない。
何かしら宗教的な信仰は、心底の納得ではなく、納得しようとしているという構造を持っている。
何かしら宗教的な信仰は、心底の納得ではなく、納得しようとしているという構造を持っている。
仏教の生苦は生きることそのものの苦しみ。
基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。
「生苦」生きる苦しみ
基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。
「生苦」生きる苦しみ
生兵法は大怪我のもとである。
修辞学や詭弁のあり方から見れば、安易なツッコミのようなものがいかに生兵法であり、論理的卑怯さを含んでいるかがよくわかる。修辞学(レトリック)・雄弁術は、誰かを説得するための技術であり、論理や事実を中心とした説得だけが有効というわけではでなく詭弁や誤謬も技術として用いられる。
定義を曖昧にしたまま、主張を作っている形になっていて定義付けや論証という手間を相手に任せているというようなものが多い。定義と要件と効果を把握せずに主張をつくる生兵法などがよくあり、修辞学的に見れば初歩にも満たない。詭弁にすら到達していないという場合も多い。
生兵法とレトリック
詭弁は、命題の証明に誤っている論理展開が用いられている推論である。説得を目的として論理展開されるが正しいと思わせるように仕向けた話し方であるが、そうした詭弁の域にも達しない幼稚な論理展開がよく見受けられる。論理的演繹すら破綻しているようなものである。
立証責任の転嫁の構造があるような物言いが多い。
修辞学や詭弁のあり方から見れば、安易なツッコミのようなものがいかに生兵法であり、論理的卑怯さを含んでいるかがよくわかる。修辞学(レトリック)・雄弁術は、誰かを説得するための技術であり、論理や事実を中心とした説得だけが有効というわけではでなく詭弁や誤謬も技術として用いられる。
修辞学(レトリック)上の詭弁
定義を曖昧にしたまま、主張を作っている形になっていて定義付けや論証という手間を相手に任せているというようなものが多い。定義と要件と効果を把握せずに主張をつくる生兵法などがよくあり、修辞学的に見れば初歩にも満たない。詭弁にすら到達していないという場合も多い。
生兵法とレトリック
詭弁は、命題の証明に誤っている論理展開が用いられている推論である。説得を目的として論理展開されるが正しいと思わせるように仕向けた話し方であるが、そうした詭弁の域にも達しない幼稚な論理展開がよく見受けられる。論理的演繹すら破綻しているようなものである。
立証責任の転嫁の構造があるような物言いが多い。
あいまいな蓋然性が絶対性を求める思考を混乱させる。蓋然性は確からしいかどうかを示すものになるため、社会における決定には使えるが、確実なものを求める哲学的思索においては混乱の原因となる。哲学的領域、哲学的問いと蓋然性のもつあいまいさは苛立ちすら生み出してしまう。瞬間ごとの現象として考えると厳密な意味での証拠は成立し得ない。社会的な領域では、蓋然性の問題が持ち出され、ある程度の確からしさで特に問題は起こらない。
文自体はそこそこ長いですが、すぐに読めます。どんな内容かは、読めばわかるので読めばいいと思います。読むと気が狂うと言われるそうですが、狂いません。別に普通のことが書いてあるだけです。読んでいて思ったことは、今まで読んだり観た作品の中には、この作品に影響を受けたであろう作品だったんだろうなぁというような感想です。しかしながら、世間では難解とされているようです。難解、気が狂う、などと言われますが、読んでいくうちに思ったことは、特に前半に書いてあることについて「20歳位の時に同じことを考えていた」ということです。もちろん100%同一の内容ではありません。記載してもいいですが、書評のようなものを読んで「読んで理解した気分」になるのは避けた方がいいと思いますので、内容は本文を読めばいいことです。「読むと気が狂う」とか、その内容を数行の解説文で「一時的に盛り上がるため」にしてしまうのはもったいないことです。さて、日本三大奇書と言われながらも、すでに考えたことのあることなのだから特に新鮮味もありません。しかし最後までオチは明かさないまま、というところがいいですね。何も確定しないまま終わります。オチがあるかのように思ってしまうのは、まだまだ「騙されて」いますから、よくよく全体の論理構成を見なおしてよく考え直してください。オチを明かさない、というよりも、オチを設定できない内容です。それは矛盾になります。しかしながら、それは小説の中の世界だけではありません。 ドグラ・マグラ
著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。「ドグラ・マグラ」夢野久作
唯物論は仮観の世界観である。
中観における仮観と空観の世界観のうち仮観の捉え方ということになる。
思考上でその可能性を模索するということはいいが、空観を否定することはできない。
空観を否定することはできないことをもって、仮観の絶対性は否定される。
よって唯物論が絶対であるということにはならない。
唯物論
中観における仮観と空観の世界観のうち仮観の捉え方ということになる。
思考上でその可能性を模索するということはいいが、空観を否定することはできない。
空観を否定することはできないことをもって、仮観の絶対性は否定される。
よって唯物論が絶対であるということにはならない。
唯物論
自分がこだわりを持つものは、全て意識的なものか無意識的なものかを問わず記憶で作られています。いろいろな意図は無意識レベルで形成されています。遺伝子レベルを含めた情報の集合体が自我ということになりますが、表面的な意識だけでなく、この意識が気づかない部分にある記憶等々も含めていわるる「自分」ということになります。無意識の状態が同調によって周りに影響を与えるということがあります。
そうした無意識的動作や無意識的選択の習得の影響は凄まじく、とりわけ「誰からも指摘されず特に問題にならないこと」であればあるほど、幼少期に保護者や兄弟姉妹などから得た影響が残っていたりします。
意識的操作を超えたもの
そうした無意識的動作や無意識的選択の習得の影響は凄まじく、とりわけ「誰からも指摘されず特に問題にならないこと」であればあるほど、幼少期に保護者や兄弟姉妹などから得た影響が残っていたりします。
意識的操作を超えたもの
自由意志の科学的な捉え方として、人文科学上と自然科学上でごっちゃにしているケースがよくある。生理反応として本能レベルの反射を抑制できるのかどうかと言うような点は、厳密には自由意志とは呼ばない。この意志の意志決定が本当に何にも影響を与えられず自由なのかという問題なのだから。
自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
脳を損傷すると精神機能に異変が生じる事から、「脳が感情や思考などの精神現象を生み出す中枢である、とみなし、脳を構成する神経系を調べることで精神現象を解明できる可能性がある」との発想が生まれた。これは、古くはデカルトが心身合一の問題として言及しているが、実験的に調べられるようになったのは19世紀以降である。心理学
束縛は、自由を奪われているという感覚がその根幹になります。何かしら犠牲感があるのならば、どこかしら「自由を求める怒り」というものが生じているということになります。
相手の世界と自分の世界は同一ではありませんし、この心で受け取れるものは、この心が六根から五蘊で捉えるものしかありませんし、何かしらの執著によりそれを自分の思ったままには受け取れないということが苦しみの元凶になります。
変わりない経験と束縛として、未来が見えない時にも望みが無くなったりしますが、未来が見えてしまうことも絶望をもたらしたりします。
誰かへの愛情は、純粋な慈しみでもありながら、己を縛るものともなりえます。
繰り返すような毎日の中、未来が見えてしまうという構造は、一方で愛ゆえに己を縛り、「原因は相手であり、愛しきものに縛られている」というような残酷さを生み出します。
「明日もまた同じような経験をするだけ」というような予測が立ちます。
しかし関係を放棄することは慈悲とは逆行するようで、良心の咎めが来るという八方塞がりがやってきたりもします。
絆という大きな束縛
相手の世界と自分の世界は同一ではありませんし、この心で受け取れるものは、この心が六根から五蘊で捉えるものしかありませんし、何かしらの執著によりそれを自分の思ったままには受け取れないということが苦しみの元凶になります。
変わりない経験と束縛として、未来が見えない時にも望みが無くなったりしますが、未来が見えてしまうことも絶望をもたらしたりします。
誰かへの愛情は、純粋な慈しみでもありながら、己を縛るものともなりえます。
繰り返すような毎日の中、未来が見えてしまうという構造は、一方で愛ゆえに己を縛り、「原因は相手であり、愛しきものに縛られている」というような残酷さを生み出します。
「明日もまた同じような経験をするだけ」というような予測が立ちます。
しかし関係を放棄することは慈悲とは逆行するようで、良心の咎めが来るという八方塞がりがやってきたりもします。
絆という大きな束縛
倫理や道徳と宗教哲学の関係、倫理と道徳の違い。
倫理と道徳の違いとして、倫理は自分はどう生きるか、道徳は社会の中で人はどうあるべきか。倫理とは、理と関係性の中での基準となる人の行動基準、秩序としての行為。倫理学の分野としてアテネの時代から考えられてきた。倫理基準、行為の前提になる考え方を宗教の教義とするのが宗教哲学。宗教のないところに倫理は存在し得ないという見方すらある。
倫理と道徳が陥る罠
倫理と道徳の違いとして、倫理は自分はどう生きるか、道徳は社会の中で人はどうあるべきか。倫理とは、理と関係性の中での基準となる人の行動基準、秩序としての行為。倫理学の分野としてアテネの時代から考えられてきた。倫理基準、行為の前提になる考え方を宗教の教義とするのが宗教哲学。宗教のないところに倫理は存在し得ないという見方すらある。
倫理と道徳が陥る罠
唯物論(Materialism)とは全てを物として捉え、物理的な現象として捉えるということ。観念や精神、心などの根底には物質があると考えてそれを重視する考え方。自然発生的な発想では唯物論にたどり着くという妄言であり、すべてにおいて客観的な物質の状態や現象で全てが説明できるという戯言。物理的な現象を観測することができてもその先の「この私」の認識は説明できない。唯物論者は自称知的で科学的な良識ある賢人。観念論者を迷信的・非科学的という風に見るが、物質中心の盲目が生じ、根本的なところを見落としている愚者。 唯物論者
唯物論は -哲学で、精神的なものに対する物質的なものの根源性を主張し、精神的なものはその現象ないし仮象と見なす認識論的、形而上学的な立場である。
唯物論は観念論の対義概念
唯物論は観念論の対義概念として、観念論を叩くためによく用いられるが、唯物論最大の欠点は、最終的にな「心で捉える」という点を棚上げして無視している点である。脳内の状態の観測を持って気分などの情動を解説したりはするが、その最終的な受け取りに関しては何の説明もなされていない。「唯物論」 とは、神や霊魂、精霊、幽霊のような、物質的な基盤を持たない存在を認めない思想的立場という意味ではない。唯物論者の中にも神学に陶酔していたり熱狂的なクリスチャンなどがいるからだ。
霊的な立場を否定するのが唯物論である考えると誤解を招く。
「有るような無いようなもの」である「空(くう)」。
空(くう)ながら実際にはそれが実在するかのように働く機能がある。
「ある」ように働き、何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「宗教方式の安らぎ」の構造はこうした空(くう)ながら働く機能によるものである。
働きの結果を根拠に言語的に示された「神」や「人格神」の実在の証明ができないということをも示す。端的には「信じたことによって安らぎが生まれた、だから人格神はいる」ということにはならない、ということである。
空(くう)ながら働く機能があるとしても、それに執著すると欲や怒りの要因となる。その結果、結局は精神としての無駄な苦しみを得てしまうことになる。
「空」でありながら実在するかのように働く機能
空(くう)ながら実際にはそれが実在するかのように働く機能がある。
「ある」ように働き、何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「宗教方式の安らぎ」の構造はこうした空(くう)ながら働く機能によるものである。
働きの結果を根拠に言語的に示された「神」や「人格神」の実在の証明ができないということをも示す。端的には「信じたことによって安らぎが生まれた、だから人格神はいる」ということにはならない、ということである。
空(くう)ながら働く機能があるとしても、それに執著すると欲や怒りの要因となる。その結果、結局は精神としての無駄な苦しみを得てしまうことになる。
「空」でありながら実在するかのように働く機能
体の健康を維持するための働きを、恒常性維持(ホメオスタシス)、恒常性維持機能といいます。
「自分を変えるには」と、明確な目標・目標の細分化・速やかに行動といったことをよく言われます。
しかしすぐに元の自分に戻ってしまうのは、恒常性維持機能の働きによる反応です。
その内容というものは、「ダメな自分を変えたいのに、変えられないは恒常性維持機能が働いているからだ」というものです。
自分を守ろうとするような機能である恒常性維持機能が原因で、「自分はなんてダメなんだ」と自責のストレスを感じるというのは、まさに本末転倒です。
心理的な恒常性維持機能が働くというのはもっともです。
心理的な恒常性維持機能とは、慣れ親しんだ生活スタイルから脱することに抵抗が生まれて、変化が起こりかけた時に元の慣れ親しんだ生活に戻ろうとする働きです。
心理的恒常性維持機能(ホメオスタシス)
「自分を変えるには」と、明確な目標・目標の細分化・速やかに行動といったことをよく言われます。
しかしすぐに元の自分に戻ってしまうのは、恒常性維持機能の働きによる反応です。
心理的恒常性維持機能
ちらほらこの恒常性維持機能が心理学的に扱われ、自己啓発のような情報が出回っていますが、ほとんどの情報は的を得ていません。その内容というものは、「ダメな自分を変えたいのに、変えられないは恒常性維持機能が働いているからだ」というものです。
自分を守ろうとするような機能である恒常性維持機能が原因で、「自分はなんてダメなんだ」と自責のストレスを感じるというのは、まさに本末転倒です。
心理的な恒常性維持機能が働くというのはもっともです。
心理的な恒常性維持機能とは、慣れ親しんだ生活スタイルから脱することに抵抗が生まれて、変化が起こりかけた時に元の慣れ親しんだ生活に戻ろうとする働きです。
心理的恒常性維持機能(ホメオスタシス)
涅槃は理解するものでないとすれば、どう取り扱えばいいのか。
それは正知の上で現れてくるものであると、仮止めとして概念で把握しておくくらいしかできない。
こうした概念は登り切る前のはしごであり、渡り切る前の筏である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
それは正知の上で現れてくるものであると、仮止めとして概念で把握しておくくらいしかできない。
こうした概念は登り切る前のはしごであり、渡り切る前の筏である。
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
動物と人間を対比した時に、人間の傲慢さが出てきますが、動物よりも害のある人間はたくさんいます。露骨に害を与えるような人だけでなく、動物に対して「人間の感情優先」という考え方をも持っている人たちもいます。しかし、所有・処分権は人と人との関係、他人と自分との関係であり、その生命体と自分たちとの関係ではありません。人間性と道徳 豊かな人間性や社会性。学問は人間性を向上させるためにあると捉える教育。道徳形而上学の基礎づけ。道徳性を備えている限りの人間性は、それのみが尊厳を持つものである。
相手が動物であれば、結果的に現象として「歯軋り」をしたり「うたた寝」をします。できれば誰か目の前にいるひとつの存在だけでなく、一気にすべての生き物に、というのがいいでしょう。そのようなことで、スッタニパータの蛇の章にある「慈しみ」が、わかりやすいでしょう。
中村 元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫 蛇の章 八
スッタニパータ 蛇の章 「慈しみ」 仏教諸聖典のうちでも、スッタニパータは最も古いもののひとつ。 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
諸行無常は哲学的な考察の元の理であり、法則の事を意味するが、時に情緒的に語られることがある。とりわけ対人関係の話題や社会的な流れについて諸行無常という言葉が使われる。
しかし、諸行無常の示すところは、そうしたマクロ目線の流れの変化だけでなく瞬間的なものを意味し、時間の存在すらも否定するようなものである。
諸行無常の諸行は「すべてのもの」とされがちだが、物ではなく、意識や心の形成作用のことを意味する。諸行無常
しかし、諸行無常の示すところは、そうしたマクロ目線の流れの変化だけでなく瞬間的なものを意味し、時間の存在すらも否定するようなものである。
諸行無常の諸行は「すべてのもの」とされがちだが、物ではなく、意識や心の形成作用のことを意味する。諸行無常
解明解決という視点
問題を解明して解決するということは一般的な手法ですが、ある危険性を孕んでいるということについてはあまり触れられません。問題だとされることが、本当に問題なのか、ということを考えてみればいいでしょう。確かにある側面では問題なのかもしれませんが、それは「ある側面」という相対的尺度を採用したから起こっています。それならば言いたい放題です。正しさは、勝手な基準で勝手に決めていることであり、まさに自前の相対的尺度そのものです。どこにも絶対性はありません。ただの相手のこだわりです。しかしこの相手のこだわりを採用してしまえば、自分が正しくない人になってしまいます。認めなければ問題にもならないことを、自分で問題だと思ってしまいます。これは、わかりやすい例ですが、同じような構図は社会にたくさん溢れています。ある問題と、問題の解決策を提示されると、前提となる問題やそのフィールド自体の属性を無意識に肯定してしまうということです。
解明解決策自体は、確かに誰かの「あるフィールド」での話です。しかし、本当に問題はそこなのか、どんどん問題を単純化していきましょう。相手のフィールドで戦おうとするから、負けを恐れて苦しむという事があるということです。
どうして相手に勝たねばならないのでしょうか。一体何の戦いでしょうか?
それは自尊心獲得ゲームです。
解明解決 意識の分野の解消法 抵抗感の破壊
ドグラ・マグラ(1935年)以外の日本三大奇書は、小栗虫太郎氏による「黒死館殺人事件」(1935年)、中井英夫(塔晶夫)氏による「虚無への供物」。
消極的な心の声は生存本能からの恐怖心により、安全を保つためにやってくる。
言葉の印象にとらわれると、本質的な思考が阻害される。
厳密な定義を持ち出すほど、思考が阻害されることがある。
抽象的な一種のラベルとして捉えておくべきである。
厳密な定義を持ち出すほど、思考が阻害されることがある。
抽象的な一種のラベルとして捉えておくべきである。
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