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哲学 philosophy
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合意のために抽象的なことを具象化する必要が生じる場合があるが、そのために元の意からは外れてしまうことが起こる。そして合意のために、観念がぐらつく。よって、内側の思考においては、合意を除外しつつ理性を保つ必要がある。
曖昧に抽象的なまま語ると妄想に見える。だからこそ語る時は具象化が必要になる。
(具象とは具体。はっきりした姿・形を備えていること)
ただ、具象化すれば意味が変わってしまうことがあり、限定が入る。
その影響で観念自体を変化させないということが重要となる。

合意と具象
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混乱により、より抽象度の高い見解が生まれる。
ある観念や概念を知ると既存の観念や概念のぐらつきから混乱が起こり、それらを統合した視点が生じる。既存の観念に対し、その他の可能性もある程度の正しさがあることに気づくとまずは混乱が起こり、それらの共通項たる視点が生まれる。
そして、より抽象度の高い見解が生まれる。
偏見は不可知領域や二律背反するような命題に対する一解釈にしか過ぎず、自己都合からその他の解釈可能性を感情的に排除しているだけ、という場合がほとんどである。
意識は、不快感から混乱を避けようとするが、こうした混乱は視点の高さを生むものであり、歓迎すべきものである場合が多い。

偏見を解く過程としての混乱
涅槃寂静と解脱は異なるものである。悟りの智慧の完成であり、脱するというものは印象にしか過ぎない。

涅槃(Nirvana)・涅槃寂静
哲学の中心は抽象度の高い本質の追求にある。
吾唯足知・吾唯知足と表現される「知足」を空性から。



「足るを知る」ということを考えてみた場合、単に「満足しているということを知る」という感じで、余計な欲を起こさず、満足しなさいと命令されているように感じ、我慢を強いられるように感じる。そして、欲しくないふりしたり足りていると自分を言い聞かすような感じで捉えてしまう。それを回避するには、「欲し、得てから満足する」というプロセス飛ばし、いきなり得た状態になる、つまり充足した状態に移動すればよい。
「ある」と「ない」を抽象化すれば、全てが不確定である。そうした空性から知足を捉えると得た状態への移動、充足への移動が直感として理解できる。

知足と空性と「充足への移動」
不足はゼロの概念がもたらす。ゼロは想像上のゼロでしかなく、本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。

ゼロの概念がもたらす不足

このゼロという概念が、記憶の連続性の中での記憶や想像と現実とのギャップを生む。
ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。
これは一種の錯覚と考えることができる。
その錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚
哲学的に考察する「心」。心とは一体何なのか?ということの答えは様々な尺度から考察することができるが、次のような定義を示すことができる。
「心とは受け取る働きである」「心とは認識する機能である」「心とは受け取る点である」




原始仏教においては、外界の現象(色)が自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)を経由し、心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)に到達するという捉え方をする。
受け取る働きであり点であるとすると、「この心」については、対外的な証明の必要はなくなる。
様々な脳と心の関係も全てクリアすることになる。
一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能となるが、全ての問題を受け取る働きである心から逆算した捉え方をすることができる。

心とは何か
宗教方式の説得による安らぎの理屈は部分的な解消にしかならない。それはごまかしとも言えるだろう。



宗教団体や何かしらの社会的目的を持ったような謎の群れを含め、よく観察するとそれらコミュニティによる安らぎ感は、一種の錯乱や群によって感情的な騒ぎがマシになるというだけで、問題については何の回答も示していないと言う場合が多い。群れていれば不安や孤独感を紛らわすことができる、そして紛らわせ続ければそれは幸せとイコールであるというような、突き詰めるとつじつまが合わないようなことであっても、権威ある形、多数決的な空気で示されると納得してしまうのは、それだけ思考の程度が低いからということになっている。
しかしそんな理屈で納得できるようなタイプではない者もいる。
社会的な属性を持った理屈が全く意味をなさない哲学的問い、論理的な迷妄の内にあるものには戯言にしか映らず、また、一般にもそうした宗教的説得による安らぎの理屈はさらなる論理的迷妄を生む。
感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁
「有るような無いようなもの」である「空(くう)」。



空(くう)ながら実際にはそれが実在するかのように働く機能がある。
「ある」ように働き、何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「宗教方式の安らぎ」の構造はこうした空(くう)ながら働く機能によるものである。
働きの結果を根拠に言語的に示された「神」や「人格神」の実在の証明ができないということをも示す。端的には「信じたことによって安らぎが生まれた、だから人格神はいる」ということにはならない、ということである。
空(くう)ながら働く機能があるとしても、それに執著すると欲や怒りの要因となる。その結果、結局は精神としての無駄な苦しみを得てしまうことになる。

「空」でありながら実在するかのように働く機能
信仰、主義等々信念など選択が可能なものにしか過ぎず、朧げで曖昧で執著するようなものではない。宗教の教義、書き換え可能な信念には不完全な論理構造が潜んでいる。「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消すというのが宗教の構造であり、こうした教義が書き換え可能な信念の代表例となっている。

書き換えが可能な信念

様々な証拠を持ち出しても、それすらも確実であると示し得ないという構造を持っているような不可知領域について、信仰というものによって他を排斥しているゆえに仮止めとして成り立っていると言えるだろう。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
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