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哲学 philosophy
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諸法無我(しょほうむが)は、あらゆるものは因縁によって起こっており(縁起)、その中で固定的な「我」というものは無いという意味を持つ。直に訳すと真理の中で我は「我ならざるもの」という形になる。パーリ語ではsabbe dhammā anattā。
ダンマパダには
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」
と示されている。

諸法無我と諸法非我

諸法無我と諸法非我は同じだが若干のニュアンスが異なり、諸法無我は「我がない」というニュアンスだが、諸法非我は「我ならざるもの」というニュアンスである。
我がないということではなく、我も空ということを指すはずなので、諸法無我という表現は適訳ではないが、原始仏教が興った当時のバラモン・ヴェーダ文化の中では、魂を実在とし、真なる我(アートマン)が実在していると考えられていた。アートマンとは、ヴェーダの宗教における自我意識のない、意識の最も深い内側にある個の根源で「真我」と呼ばれる。それを否定するという意味合いもあって無我という概念が当てはめられたと考えるのが妥当だろう。
その根本原因としてバラモン・ヴェーダ・ヒンドゥーの宗教観・哲学では、魂=アートマン(真我。意識の最も深い内側にある個の根源)が実在し、ブラフマンと一体化することが悟り(梵我一如)であるとされていたことによる。諸法無我の意味するところには、ヴェーダの中の「アートマンは不滅」と考えられていた部分を否定するという要素も含まれている。諸法無我は通常、人間としての我は存在しないと解釈されるが、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がなく、無いというよりも有と無を抽象化した空であると解釈するのが妥当だろう。問題はその先にあるわれの実在感による我執であり、執着が苦しみを生むという点である。

諸法無我
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