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哲学 philosophy
諸法無我(しょほうむが)は、あらゆるものは因縁によって起こっており(縁起)、その中で固定的な「我」というものは無いという意味を持つ。直に訳すと真理の中で我は「我ならざるもの」という形になる。
ダンマパダには
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である
と示されている。
諸法無我と諸法非我は同じだが若干のニュアンスが異なり、諸法無我は「我がない」というニュアンスだが、諸法非我は「我ならざるもの」というニュアンスである。
我がないということではなく、我も空ということを指すはずなので、諸法無我という表現は適訳ではないが、原始仏教が興った当時のバラモン・ヴェーダ文化の中では、魂を実在とし、真なる我(アートマン)が実在していると考えられていた。それを否定するという意味合いもあって無我という概念が当てはめられたと考えるのが妥当だろう。その根本原因としてバラモン・ヴェーダ・ヒンドゥーの宗教観・哲学では、魂=アートマン(真我。意識の最も深い内側にある個の根源)が実在し、ブラフマンと一体化することが悟り(梵我一如)であるとされていたことによる。諸法無我の意味するところには、ヴェーダの中の「アートマンは不滅」と考えられていた部分を否定するという要素も含まれている。

諸法無我
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自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
そのような自由意志論という分野がある。
哲学的に見ると決定論的に自由意志はないという帰結になるが、自由意志がないとすると全ての人の意志決定に責任が無くなり、契約も犯罪の帰責も宙に浮いてしまう。
相容れなさそうな哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論にそれほど意味がないことがわかる。哲学的に考えた場合は、自分の意志は自分以外の情報の塊を発端とする自然発生的な意志にしかすぎない。しかし、社会学において自由意志を捉える時には、「『選択肢が存在していて、その選択に制約がない状態』で選ぶこと自体が自由意志とし、帰責の問題を解決している。

自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く
色受想行識の内の行と諸行無常の関係性。
仏教において、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊は五蘊と表現され、経典においても色受想行識、五蘊盛苦としてよく出てくる。これは体感覚・触覚・味覚・嗅覚・視覚・聴覚などを発端とし、現象をこころが受け取るプロセスについて表現している。諸行無常の「諸行」の「行」とは何を示すのかという解釈のヒントになる部分になる。
諸行無常(仏教)
諸行無常は哲学的な考察の元の理であり、法則の事を意味するが、時に情緒的に語られることがある。とりわけ対人関係の話題や社会的な流れについて諸行無常という言葉が使われる。
しかし、諸行無常の示すところは、そうしたマクロ目線の流れの変化だけでなく瞬間的なものを意味し、時間の存在すらも否定するようなものである。
諸行無常の諸行は「すべてのもの」とされがちだが、物ではなく、意識や心の形成作用のことを意味する。諸行無常
不殺生と不殺生戒(ふせつしようかい)。仏教の戒律とは、悟りを求める修行に於いて自発的に守ろうとする戒めのこと。不殺生戒は仏教用語であり、戒律に規定されたことで、生物の生命を絶つことを禁止し不殺生戒を犯して生き物を殺すものは、僧伽では最も重い波羅夷になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。

不殺生戒(アヒンサー)


不殺生戒(アヒンサー)についてこれは一応、仏教者が守るべき五戒のうち、最も重要だとされている戒めであり、「生き物を殺してはならない」というもの「命あるものを殺すな」という不殺生とは、その様な仏の慈悲心を生活の中で実践して生きていこうとする具体的な生活規範。仏教の戒律のなかで不殺生戒(ふせつしようかい)はもっとも重いので、一般俗人も仏教の信仰に入れば、これを犯さない誓いを立てた。不殺生、不傷害はインド宗教一般の重要な思想の一つで、ヴェーダの一部をなすウパニシャッド、ジャイナ教においても不殺生戒の概念は見られた。五戒の中の不殺生戒、つまり「生き物を殺してはいけません」ということが語られていた当時、「植物は生き物ではない」というのが一般的だった。

仏教の不殺生戒


しかし仏教上の不殺生戒では大小を問わず動植物一切の生類の殺害を禁止している。仏教においても、最初期の仏教に不殺生の思想がみえ、修行者の守るべき五戒の中の重要な戒に含まれている。大乗仏教もこの不殺生を絶えず説く。中国、日本の仏教においても不殺生・不殺生戒が重要なことは疑いの余地はない。 しかし実生活で殺生をせずには生きられない。徹底して不殺生を実践したら何も食べられなくなるのになぜ、釈迦は不殺生戒を定めたのだろう?

不殺生戒
我思う故に我あり、これはコギトエルゴスムの日本訳である。デカルトの方法序説に出てくるコギトエルゴスムの概要としては、目をなくしても、鼻をなくしても、五感を全てなくしても、結局「考えている自分」というものから「自分」というものは切り離せないというようなこと。デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していったとされる。
コギト エルゴ スム
一切を疑うべしという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。
「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明であるとする命題である。コギト命題。
唯物論とは全てを物として捉え、物理的な現象として捉えるということ。観念や精神、心などの根底には物質があると考え、重視する考え方。客観的な物質の状態や現象で全てが説明できるという戯言。物理的な現象を観測することができてもその先の「この私」の認識は説明できない。唯物論者は自称知的で科学的な良識ある賢人。観念論者を迷信的・非科学的という風に見るが、根本的なところを見落としている愚者。 唯物論者
唯物論は -哲学で、精神的なものに対する物質的なものの根源性を主張し、精神的なものはその現象ないし仮象と見なす認識論的、形而上学的な立場である。
諸行無常(仏教)、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないこと。「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」
一般的な諸行無常について、大まかに定義すると、「諸行」については、「因と縁によって生ずる全ての現象」、「無常」は「固定的ではない」
といった感じです。諸行無常はこの世の万物は常に変化してとどまるものはないこと。人生の無常をいう仏教の根本的な考え。

「諸行」は、この世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。三法印、四法印のひとつ。諸行無常は、この現実の世界のあらゆる事物は直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので絶えず変化し続永遠のものではないということ。
しかしながら諸行無常はそうした現象や物質そのものを指すものではありません。「形成作用」や「形成されたもの」という意味を持ちます。諸行無常の解説の多くは、諸行無常の「諸行」に対し、諸々の物や出来事、つまり現象という感じで捉えられていますが、さらに厳密に考えた場合、諸行無常の行は対象を捉える時の意識の形成作用を意味し、形成されたものを意味します。
よって諸行とは全ての形成されたものという意味です。

諸行無常
人は自らの価値基準に従って、その価値基準に合致しない人は排除しようとする傾向があります。
しかしその排除は合理的なものというよりも、優越感であり、解釈変更によって「自らを尊い存在だと思いたい」ということの表れです。自尊心ですね。 そこには一種の虐げられた奴隷精神からの「復讐」のような動機も内在しているのかもしれません。そしてそこには優越感という快感があるということでしょうか。 この快感は、自分で決めて、自分で勝手に「勝った」と思っているという自作自演ゲームです。
解釈変更による「復讐」の快感
「本当にすごいということは、そういうことではなく、こういうことだ」というような、「何かしらのすごいこと」という前提は認めるものの、その枠内で解釈を変えたりすることです。その解釈の変更も同属性のモノの中で解釈を変える手法から、別属性の「何かすごいこと」にすり替えるものまで変化は多様です。 それらはルサンチマンと呼ばれます。奴隷精神による解釈変更です。恨みや僻みを解消するために基準を変えて解釈変更して自尊心を満たそうとするようなことです。
ルサンチマンと呼ばれる奴隷精神による解釈変更 底意ある馬鹿げた畏敬~僻み 僻み・怨恨という感情の状態は、思考の中にそれに対する憧れや畏敬があるはずです。
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