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哲学 philosophy
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すべて形成されたものは苦しみであるというのが一切行苦であり、一切皆苦と表現すると、意味がわからなくなる。また、一切皆苦・一切行苦の苦は「ドゥッカ」であり、日本語の苦とはニュアンスが異なるので注意が必要である。普段使用する漢字の意味やイメージを元に「苦」を捉え、単純に「苦しみ」と捉えてしまうと変なふうにとらえてしまう。

一切皆苦・一切行苦
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諸法無我はパーリ語でsabbe dhammā anattāと表現される。このうち、諸法無我の法はダンマであり、それは概ね法則、理、真理を意味する。すぐに再現可能で確認可能な法則のことが真理であり、諸法無我の法はそうした「真理」を意味する。
諸法無我は複数の意味を示しており、理解しがたい。

諸法無我とアートマン
諸行無常とは、一切の形成されたものは固定的ではないという意味であり、その諸行の行は、形成作用と言う意味を持つ。よって、万物とかすべての物事という表現は間違いとは言わないが、定義が不足している。
常に生滅を繰り返す因と縁によって生ずるすべての現象を捉えること、心で印象を得るということを見逃してはならない。

諸行無常(仏教)
唯物論は仮観の世界観である。
中観における仮観と空観の世界観のうち仮観の捉え方ということになる。
思考上でその可能性を模索するということはいいが、空観を否定することはできない。
空観を否定することはできないことをもって、仮観の絶対性は否定される。
よって唯物論が絶対であるということにはならない。

唯物論
唯物論はあくまで観念論の対義語としての位置づけにあるものであり、神的なものを否定するというものではない。 日本では神や霊魂の否定の意味かのように捉えている愚者がいる。 そうした意味で唯物論という概念があるわけではない。 根本的に唯物論には欠陥があり、ココロというものをどう取り扱っているのかを説明できていないという根本問題があるというだけのだ。
仏教の生苦は生きることそのものの苦しみ。基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。

「生苦」生きる苦しみ
修辞学(レトリック)は、古代アテナイの時代からある弁論・叙述の技術に関する学問で思想感情を雄弁にうまく伝達するための原理を研究する学問である。雄弁術、弁論術、説得術とも呼ばれることがある。こうした修辞技法は分野間を横断して利用されていった。
修辞学と詭弁と生兵法 アリストテレスによる弁論術(修辞学)では、以下の三種類が挙げられている。 「話し手の人柄にかかっている説得」 「聞き手の状態・感情に訴える説得」 「言論そのものにかかっている説得」
ニーチェが言いたかったのはおそらく「ルサンチマンは生を否定する」という点だろう。
強者への僻みを持ちながら強者になろうという意志を否定し、堪え忍ぶことを美徳とするのはおかしいというようなことになるだろう。
ルサンチマン(ressentiment)
自由意志の科学的な捉え方として、人文科学上と自然科学上でごっちゃにしているケースがよくある。生理反応として本能レベルの反射を抑制できるのかどうかと言うような点は、厳密には自由意志とは呼ばない。この意志の意志決定が本当に何にも影響を与えられず自由なのかという問題なのだから。

自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
仏教において苦しみや苦痛を網羅して示す四苦八苦(しくはっく)。日常では非常に苦労することやたいへんな苦しみ、非常に苦労するといったことを意味する四苦八苦だが、本来は生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死ぬ苦しみといった「生老病死」と合わせて、嫌いな人と会わねばならぬ「怨憎会苦」、愛するものと別れる苦しみである「愛別離苦」、求めても得られない苦しみである「求不得苦」、5つの構成要素・素因である色受想行識に対する執着から起こる「五蘊盛苦(五盛陰苦/五取蘊苦)」という苦しみで根本的な苦しみを意味する。

四苦八苦 あらゆる苦しみ
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