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哲学 philosophy
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倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。

風習とは、しかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。

風習の倫理
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曙光』(1881年)において、ニーチェは「力の感覚」を強調する。道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判も完成した。曙光のアフォリズム集でニーチェが求めているのは、自らが特殊な体験を得ることであるかのようにみえる。曙光のアフォリズム 曙光第一書 曙光第二書
ニーチェは、その著書に随所にアフォリズムを用いた巧みな散文的表現が多く、これには文学的価値も認められる。
一時期流行った”自分探し”ってやつは、何も都合良すぎる自分を探し求めることではなくて、自分に向いている場所を見つけることだった。それには極力、”自分”ってやつを無くしていけば向いている場所も増えるっていう至って単純な話。自分をなくそうと思うと、自分を意識してしまいがちになります。何かにとらわれないでおこうと思えば思うほど力んでしまって、結局意識からは離れてくれないものです。「強いて言えば、これ」だったものがいつしかそれにばっかり気を取られて、知らぬ間に執着しているものです。それに出会った時は「どちらかといえば」レベルだったものが、知らぬ間に「これじゃなきゃ嫌だ」ということになったりしています。しかし、思い返せばそれに執着する根拠はどこにもありません。
さよなら私 さよなら私 改自分なくし 改 始めと終わり 改 ないものねだり 改 モテないが正しい 改

本能的なものというのは無駄がなく知性的です。

ニーチェがそんなことを言っていました。

純粋に本能的なものほど、知性を感じたりします。

「モテるために、英会話をマスターしよう」というのは、実に遠回りで音痴のような気がします。

同様に、スリムになるために食事を制限するというのも、知性的ではありません。

「今日起きたのは7時、この起きている時間で、あの時にこれだけ、さっきはこれだけ体力を消耗した、摂取した栄養素はこれこれで、なになにが不足しているが、今の所は許容値、ひとまず11時までには寝るべきだ」などとわざわざ計算せずとも眠くなって勝手に寝ます。純粋な知性

形而上学的パッケージプラン

目に見えない領域のことについて、数ある可能性の中から、有名な書物を用いて確定させていくのが、世の宗教ではないでしょうか。「考えても仕方ないよ」ということで、「まあこういうことだから」という感じで、考えてしまう思考の部分を落ち着ける作用があります。方便という言葉があります。本当のことをいきなりいったところで、理解できないから、仮のたとえでひとまず落ち着けるというやり方です。本当はどうでもいいことについて、「どうでもよくない!」と躍起になっている人をひとまず落ち着かせるためのものです。その方便を本気で信じている人たちがいます。信じているということは、実は数パーセントは疑っていて、信じようとしている状態です。

形而上学的パッケージプラン
メタフィジック(metaphysics)
非常にわかりにくいですが、五感の情報は外からの情報を感知する機能によって意図とは別に、感じてしまいます。じゃあ自分が考えているというのは外の現象に左右されていないのかというと、それもすべて外部の情報に依存してしまいます。記憶も癖も考え方のパターンも「何もないところからいきなり現れたもの」というのは考え難いと思います。教育や他とのコミュニケーションによらず、本能としてあらかじめ組み込まれていたとしても、自分が作り上げたものではありません。じゃあ「私の考え」とは、一体なんなのでしょうか。「私は考えている」というのも、もっと適切に言えば「考えさせられている」とも言えますし、「外からの情報によって自動発生している」とも言えます。かと言って、外の現象(―による情報)の出発点が「人間より上位の存在」というのは、妄想の域を出ません。

コギトエルゴスム

客観の誤謬

客観視する、というのはどう転んでも、外側で起こっていることを認識できる間口は「主観」しかありえないのに、それを自分以外のところで起こっている何かとして、「自分の中」でイメージしていることにほかならない。外で起こっていることを純粋に客観的に「存在している」と認めるのは「主観」でしかないはずで、「客観的」という属性を帯びた主観でしかないことは明白である。

時間と主観

なぜ、人を殺してはいけないか

なぜ、人をいじめてはいけないのか

という命題にまともに答えたのは大勢いるように見えて、確認できるのは実は数人しかいない。

まともに、というのは、それ以外にもたくさんこの疑問に答えようとしたものはいるが、一応の詳しい論証はしていても、前提が具体的すぎる、すなわち途中からしか考えていない、というものである。

なぜ人をいじめてはいけないのか

物質の作用で説明がつくのは途中までで、結局それを根拠に、「全ては物質の作用、状態、位置関係」などで「すべて」を説明することは不可能なことは明らかです。こういう研究で、薬を作ったりするのは大いに結構ですが、だからといって「この世の全て」を説明することはできません。結局感じているということはどういうことか、それを考えると、物質として観測は可能でも、主体は物質ではないのではないか、という疑問が残ります。物質であろうがなかろうが、今を認識している存在の中心のただ一点は、物質の流れを見ても観測できません。
唯物論のオチとして物質の作用で説明がつくのは途中までで、結局それを根拠に、「全ては物質の作用、状態、位置関係」などで「すべて」を説明することは不可能。
唯物論
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