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哲学 philosophy
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哲学の中心は抽象度の高い本質の追求にある。
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吾唯足知・吾唯知足と表現される「知足」を空性から。



「足るを知る」ということを考えてみた場合、単に「満足しているということを知る」という感じで、余計な欲を起こさず、満足しなさいと命令されているように感じ、我慢を強いられるように感じる。そして、欲しくないふりしたり足りていると自分を言い聞かすような感じで捉えてしまう。それを回避するには、「欲し、得てから満足する」というプロセス飛ばし、いきなり得た状態になる、つまり充足した状態に移動すればよい。
「ある」と「ない」を抽象化すれば、全てが不確定である。そうした空性から知足を捉えると得た状態への移動、充足への移動が直感として理解できる。

知足と空性と「充足への移動」
不足はゼロの概念がもたらす。ゼロは想像上のゼロでしかなく、本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。

ゼロの概念がもたらす不足

このゼロという概念が、記憶の連続性の中での記憶や想像と現実とのギャップを生む。
ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。
これは一種の錯覚と考えることができる。
その錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚
哲学的に考察する「心」。心とは一体何なのか?ということの答えは様々な尺度から考察することができるが、次のような定義を示すことができる。
「心とは受け取る働きである」「心とは認識する機能である」「心とは受け取る点である」




原始仏教においては、外界の現象(色)が自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)を経由し、心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)に到達するという捉え方をする。
受け取る働きであり点であるとすると、「この心」については、対外的な証明の必要はなくなる。
様々な脳と心の関係も全てクリアすることになる。
一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能となるが、全ての問題を受け取る働きである心から逆算した捉え方をすることができる。

心とは何か
「有るような無いようなもの」である「空(くう)」。



空(くう)ながら実際にはそれが実在するかのように働く機能がある。
「ある」ように働き、何かしらの機能が生まれ、働きに応じて実際に結果が出る。
「宗教方式の安らぎ」の構造はこうした空(くう)ながら働く機能によるものである。
働きの結果を根拠に言語的に示された「神」や「人格神」の実在の証明ができないということをも示す。端的には「信じたことによって安らぎが生まれた、だから人格神はいる」ということにはならない、ということである。
空(くう)ながら働く機能があるとしても、それに執著すると欲や怒りの要因となる。その結果、結局は精神としての無駄な苦しみを得てしまうことになる。

「空」でありながら実在するかのように働く機能
信仰、主義等々信念など選択が可能なものにしか過ぎず、朧げで曖昧で執著するようなものではない。宗教の教義、書き換え可能な信念には不完全な論理構造が潜んでいる。「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消すというのが宗教の構造であり、こうした教義が書き換え可能な信念の代表例となっている。

書き換えが可能な信念

様々な証拠を持ち出しても、それすらも確実であると示し得ないという構造を持っているような不可知領域について、信仰というものによって他を排斥しているゆえに仮止めとして成り立っていると言えるだろう。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
有と無を抽象化した空のような透明。苦楽の両極端、あえて極端にいくと、その限界や本質が見えてきたりする。そしてそれは透明的である。快楽と苦しみの間にいるのは中間であり、その両極端を知り、見極め、さらに先に行く。すべてを包括するという抽象性を持ち可能性として全てを含むような透明、白ではない空白、まっさらな空間のような地点が最高の到達地点である。

白と黒の先にある透明へ
病の時の苦しさであり病になることから逃れられないという苦しみが仏教上の四苦八苦の病苦(びょうく)である。病苦とは、病の時、病気の時の苦しさでありながら、そうした病に冒されることからは逃れられないという意味で「思い通りにはならない」という苦しみを意味する。可能性として病にかかるというものからは逃れられず、いくら病気を嫌おうが完全に逃れることは不可能という意味でドゥッカである。そして病気には苦しさ、痛みが伴う。生命として逃れ得ない苦しみの一つである。経典の中で四苦八苦についてはヴィナヤ・ピタカにあり、病苦について触れられているものとしては、アングッタラ・ニカーヤの健康時における健康の意気(健康のおごり)が有名である。

「病苦」病の苦しみ
諸法無我は、哲学的な理解を要する。アートマン(我)の否定といった史実的な側面の理解ではなく、哲学的な理解として諸法無我だけでなく諸法非我という表現から理を掴む必要がある。「全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無い」というとき、無いというよりも「ならざるもの」という非我から理解するほうが良いかもしれない。
哲学的感覚に慣れた人でないと言語の字義的解釈では諸法無我の理解は難しいかもしれない。
ソクラテス的な無知の知は、答えの行き詰まりを知っているという一種の気づきであり、哲学的な到達点の不完全性を示すようなものであるが、その先に不可知を理由に神学的な自己欺瞞に走るのは誤謬であると言わざるを得ない。
何かしら宗教的な信仰は、心底の納得ではなく、納得しようとしているという構造を持っている。
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