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哲学 philosophy
「現在も未来も過去の延長だろう」というのが普通の感想ではあるが、本来因果律は過去に基づいて未来が決定されているのではなく、今の意識の向きが未来を作り、それが現在にやってくる。過去の延長に思えるという印象の構造を分解すると「今の意識の向きが過去に基づいているから」という感じになり、過去に基づいているにしても、「過去のどの部分に重要性をおいているか」という配置や順番も関係している。
 
「今の意識の向き」は瞬間で変化しているが、過去のどの部分に重要性をおいているか」という状態が狭い幅である程度固定化されています。
しかし、実は「今の意識の向き」は、本来そうしたものに依存していません。もっと柔軟に変えることができる。そしてそれは観察によって変化する。
 
「今の意識の向き」として、何を観察すればよいのか?
 
それは「自我では想像もできない最高の状態を観察する」というのが正解であり、構造上、裏を返せば「自我を手放せば自動的にそちらに向く」ということになる。
常に空である全宇宙・全可能性の中はいる。ただ、今の意識の向きによって絞り込みが行われ、「心がその状態をただ受け取っている」というような感じになっている。
手放し対象となる自我とは「自分と関係しているものの集まり」であり、通常は、空である全宇宙・全可能性の中から「自分と関係しているもの」という絞り込みがなされている。そこから「自分と関係しているもの」を外し、空と統合すると、全宇宙、全可能性の中に「心」が移る。

人の尊厳と可能性
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不殺生戒は仏教のみならず様々なところで戒めとして捉えらているが、この不殺生戒は哲学的に検討しても合理性を持つ。非暴力・不傷害、殺生を禁ずることを、戒めであるから守らなければならないと考えることは盲信となる。
そうではなく、戒めがこの心にとってどのように働くのか、意識の性質を哲学的に捉えて、幸福とは何かを哲学的に検討していくと、不殺生戒がもつ合理性が見えてくる。
ルサンチマンは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりしますが、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。

ルサンチマンを含まないニヒリズム

ルサンチマンも、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」です。では何のために解釈変更するのでしょうか。 何かが起こるときには何かの原因があります。人が何か意識の上でも行動を起こすとなれば、その手前には「衝動」があります。 そういった意味で紐解いていくと、「力への意志」の正体がわかります。 そんな中で、「ルサンチマンを含まないニヒリズム」と言ったものが見えてくるでしょう。

力の感情 ルサンチマンを含まないニヒリズム
ルサンチマンは、ただの弱者の怨恨感情ではなく奴隷精神による「解釈変更」、積極的ニヒリズムも本来はポジティブもネガティブもありません。
現実への態度として、「現実が変わらないのであれば困る」という意見は自我の意見であり、現実を変えようとして「なんとかなる」と思い込もうとして、安心したフリをするというのは誤りです。「現実を無視する」というと暴論のようですが、暴論ではありません。現実をただ観察するというのであれば問題はありません。

確認して苦悩が起こるなら無視して今楽になる方を選んでください。
現実を確認して起こる苦悩、苦悩の元である思考や判断を無視するということです。「なんとかなる」の状態になったら、不安・恐怖を伴う思考や妄想を無視する、かつ、現実を無視します、
何かに没頭していれば「自我」は出てこれなくなります。
現実を無視するということは、何かしらの問題に対して何の対策、対応もしてはいけないということではなく、逆に何もしなくても構いません。
何もしない方が楽なのであれば、何もしないということです。何かをした方が楽なのであれば、その何かを考えずに行うというような感じです。
その場その場で「心の安らぎにとって一番最適な選択をする」ということです。

現実を無視する
諸行無常は哲学領域の概念である。
「瞬間としての今の変化」と固定ということのありえなさ、そして記憶の連続性、執著の対象の本質を示すものが諸行無常である。「因」直接の原因、「縁」間接的な環境条件によって形成されたものは必ず変化するということを示す。
この諸行無常は、信仰的なものがなくても理解できる哲学的なものである。
諸法無我(しょほうむが)は、あらゆるものは因縁によって起こっており(縁起)、その中で固定的な「我」というものは無いという意味を持つ。直に訳すと真理の中で我は「我ならざるもの」という形になる。パーリ語ではsabbe dhammā anattā。
ダンマパダには
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」
と示されている。


諸法無我と諸法非我

諸法無我と諸法非我は同じだが若干のニュアンスが異なり、諸法無我は「我がない」というニュアンスだが、諸法非我は「我ならざるもの」というニュアンスである。
我がないということではなく、我も空ということを指すはずなので、諸法無我という表現は適訳ではないが、原始仏教が興った当時のバラモン・ヴェーダ文化の中では、魂を実在とし、真なる我(アートマン)が実在していると考えられていた。アートマンとは、ヴェーダの宗教における自我意識のない、意識の最も深い内側にある個の根源で「真我」と呼ばれる。それを否定するという意味合いもあって無我という概念が当てはめられたと考えるのが妥当だろう。
その根本原因としてバラモン・ヴェーダ・ヒンドゥーの宗教観・哲学では、魂=アートマン(真我。意識の最も深い内側にある個の根源)が実在し、ブラフマンと一体化することが悟り(梵我一如)であるとされていたことによる。諸法無我の意味するところには、ヴェーダの中の「アートマンは不滅」と考えられていた部分を否定するという要素も含まれている。諸法無我は通常、人間としての我は存在しないと解釈されるが、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がなく、無いというよりも有と無を抽象化した空であると解釈するのが妥当だろう。問題はその先にあるわれの実在感による我執であり、執着が苦しみを生むという点である。

諸法無我
信仰、主義等々信念など選択が可能なものにしか過ぎず、朧げで曖昧で執著するようなものではない。宗教の教義、書き換え可能な信念には不完全な論理構造が潜んでいる。「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消すというのが宗教の構造であり、こうした教義が書き換え可能な信念の代表例となっている。

書き換えが可能な信念

様々な証拠を持ち出しても、それすらも確実であると示し得ないという構造を持っているような不可知領域について、信仰というものによって他を排斥しているゆえに仮止めとして成り立っていると言えるだろう。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
今現在に集中すると起こる現象への解釈。



幅を持った意識の集中ではなく一秒前でも一秒後でもない、今現在に意識を集中していくことで、客観的な時間ではなく、この心が受け取る現象のあり方が見えてくる。
現在過去未来という時間が語られる時、客観的な仮観の世界から解釈が起こっている。しかしながら厳密に捉えた場合、そうした時間の解釈はこの内側でしか起こっていない。
「今に集中する」という場合や「現在に集中する」という場合、第三者から見て確認できない領域で、現象をどう認知しているかということや、この心は受け取る働きのみであるという部分が見えてくる。
サマタでは分離であり同時に分別の機能である自我機能が低下していく。ヴィパッサナーで集中力が上がれば、そのうち普段想起するような雑念や体感は無くなり、生滅の繰り返し、諸行無常や諸法無我が理屈を超えて体感できるようになる。
「今」に集中することと今をスタートとすること
自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
そのような自由意志論という分野がある。
哲学的に見ると決定論的に自由意志はないという帰結になるが、自由意志がないとすると全ての人の意志決定に責任が無くなり、契約も犯罪の帰責も宙に浮いてしまう。
相容れなさそうな哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論にそれほど意味がないことがわかる。


自由意志と哲学的自由意志

自由意志と哲学的自由意志について。
哲学的に考えた場合は、自分の意志は自分以外の情報の塊を発端とする自然発生的な意志にしかすぎない。しかし、社会学において自由意志を捉える時には、「『選択肢が存在していて、その選択に制約がない状態』で選ぶこと自体が自由意志とし、帰責の問題を解決している。

自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

しかしながら、自由意志を語る上で理系の科学者は、無意識の反応に対して意志で抵抗できるかどうかというようなことを自由意志として捉えている。しかしそれは意識と無意識の話であって、根本的に自由意志の分野ではない。

哲学的に検討される自由意志とは、この意志自体が完全に自由であるのかどうかであり、今目の前の選択において意志決定するにあたり、経験から形成されたものすべての影響を一切受けないのかという点である。
そう考えると経験によらない意志の形成はなく、本能レベルであれば、体に組み込まれてものなので、自分が自発的にオリジナルで生み出したものではないということになる。
自由意志にまつわる理系の発想は根本的な定義や抽象度が低いということになる。
吾唯足知・吾唯知足と表現される「知足」を空性から。



「足るを知る」ということを考えてみた場合、単に「満足しているということを知る」という感じで、余計な欲を起こさず、満足しなさいと命令されているように感じ、我慢を強いられるように感じる。そして、欲しくないふりしたり足りていると自分を言い聞かすような感じで捉えてしまう。それを回避するには、「欲し、得てから満足する」というプロセス飛ばし、いきなり得た状態になる、つまり充足した状態に移動すればよい。
「ある」と「ない」を抽象化すれば、全てが不確定である。そうした空性から知足を捉えると得た状態への移動、充足への移動が直感として理解できる。

知足と空性と「充足への移動」
「どうする?」というのは思考です。思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎません。なぜどうにかしたいのかというと不快だからです。「苦」と表現してもよいでしょう。
思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。その不快感なり、悲しみなり、辛い感情なりを和らげたいというようなものか、それを和らげるために苦を解消する方法を「知りたい」というのは思考。

思考や感情と私
ルサンチマン(ressentiment)



被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみ、怨恨を内心にため込んでいること。このうえに成り立つのが愛・同情といった奴隷道徳。
ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。
ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。




実存主義の創始者と呼ばれるセーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)により確立された哲学上の概念で フリードリヒ・ニーチェは道徳の系譜(1887年)でこのルサンチマンを明確に使用しだした。ルサンチマンは、怨恨・復讐を意味する語。ニーチェは強者の君主道徳と対比して弱者の奴隷道徳は強者に対するルサンチマンと主張。

通常、ルサンチマンは怨恨や妬みなどの感情的な面で説明されることが多いが、哲学上の概念であるため、単にそうした感情を指すものではなく、怨恨感情の思考上の解決策であり、根底に奴隷道徳が存在するという意味を持つ。
哲学的に考察する「心」。心とは一体何なのか?ということの答えは様々な尺度から考察することができるが、次のような定義を示すことができる。
「心とは受け取る働きである」「心とは認識する機能である」「心とは受け取る点である」




原始仏教においては、外界の現象(色)が自我(六根(五感+意識)に対応する受想行識)を経由し、心 (受け取る点、受け取る働き・認識する機能)に到達するという捉え方をする。
受け取る働きであり点であるとすると、「この心」については、対外的な証明の必要はなくなる。
様々な脳と心の関係も全てクリアすることになる。
一種の主観領域ゆえ、客観性を持たせることは不可能となるが、全ての問題を受け取る働きである心から逆算した捉え方をすることができる。

心とは何か
有と無を抽象化した空のような透明。苦楽の両極端、あえて極端にいくと、その限界や本質が見えてきたりする。そしてそれは透明的である。快楽と苦しみの間にいるのは中間であり、その両極端を知り、見極め、さらに先に行く。すべてを包括するという抽象性を持ち可能性として全てを含むような透明、白ではない空白、まっさらな空間のような地点が最高の到達地点である。

白と黒の先にある透明へ
病の時の苦しさであり病になることから逃れられないという苦しみが仏教上の四苦八苦の病苦(びょうく)である。



病苦とは、病の時、病気の時の苦しさでありながら、そうした病に冒されることからは逃れられないという意味で「思い通りにはならない」という苦しみを意味する。可能性として病にかかるというものからは逃れられず、いくら病気を嫌おうが完全に逃れることは不可能という意味でドゥッカである。そして病気には苦しさ、痛みが伴う。生命として逃れ得ない苦しみの一つである。経典の中で四苦八苦についてはヴィナヤ・ピタカにあり、病苦について触れられているものとしては、アングッタラ・ニカーヤの健康時における健康の意気(健康のおごり)が有名である。

「病苦」病の苦しみ
アレテー・徳と内発性。



内発的動機づけ等で用いられる内発性。この内発性は「自然と内から湧いてくる」ような力やその方向・性質。内発性は徳の領域になるため、「徳の高さ」というのは「包括している対象の範囲の広さ」になる。
内発性とは、「自然と内から湧いてくる」ような力やその方向、性質のことです。アリストテレス的に言うとニコマコス倫理学におけるアレテー(ἀρετή )、つまり、徳です。内発性と自発性

内発的とは、内部から自然に起こる、つまり外からの働きかけによらずに起こるものを意味し、その性質を持つものは内発性となる。
確実性の度合いの問題である蓋然性(がいぜんせい)とは、「確からしさ」という意味を持つ。「おそらくそうだろう」というような確実性の度合いのことを意味する。



物事や過去の出来事に関して、それが起こるのかどうかとか、事実であるかどうかという確実性の度合い。可能性は可能かどうかの性質であり、蓋然性は確からしいかどうかを示すものになる。「確実に示そうとしても示しえないので、ある程度確からしければ」という形で、哲学的に決着がつかないようなことでも、社会の中の取り決めで利用されている概念である。

蓋然性とあいまいさ

蓋然性は確実であることを示すものではない。いかに確実らしいかということの尺度であり、社会において示し得ないものを判断する際に出てくる概念である。
諸法無我は、哲学的な理解を要する。アートマン(我)の否定といった史実的な側面の理解ではなく、哲学的な理解として諸法無我だけでなく諸法非我という表現から理を掴む必要がある。「全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無い」というとき、無いというよりも「ならざるもの」という非我から理解するほうが良いかもしれない。
哲学的感覚に慣れた人でないと言語の字義的解釈では諸法無我の理解は難しいかもしれない。
ソクラテス的な無知の知は、答えの行き詰まりを知っているという一種の気づきであり、哲学的な到達点の不完全性を示すようなものであるが、その先に不可知を理由に神学的な自己欺瞞に走るのは誤謬であると言わざるを得ない。
何かしら宗教的な信仰は、心底の納得ではなく、納得しようとしているという構造を持っている。
仏教の生苦は生きることそのものの苦しみ。



基本的には「生存本能にただやらされているだけ」というのが生苦(しょうく)であり「生きる苦しみ」である。生苦とは、生きるためにやらされている事による苦しみ。生も苦しみである(生苦)。人生は苦である。生きることは苦しみである。四苦八苦のうちの最初の生老病死の生が生苦。

「生苦」生きる苦しみ
生兵法は大怪我のもとである。




修辞学や詭弁のあり方から見れば、安易なツッコミのようなものがいかに生兵法であり、論理的卑怯さを含んでいるかがよくわかる。修辞学(レトリック)・雄弁術は、誰かを説得するための技術であり、論理や事実を中心とした説得だけが有効というわけではでなく詭弁や誤謬も技術として用いられる。

修辞学(レトリック)上の詭弁


定義を曖昧にしたまま、主張を作っている形になっていて定義付けや論証という手間を相手に任せているというようなものが多い。定義と要件と効果を把握せずに主張をつくる生兵法などがよくあり、修辞学的に見れば初歩にも満たない。詭弁にすら到達していないという場合も多い。

生兵法とレトリック

詭弁は、命題の証明に誤っている論理展開が用いられている推論である。説得を目的として論理展開されるが正しいと思わせるように仕向けた話し方であるが、そうした詭弁の域にも達しない幼稚な論理展開がよく見受けられる。論理的演繹すら破綻しているようなものである。
立証責任の転嫁の構造があるような物言いが多い。
あいまいな蓋然性が絶対性を求める思考を混乱させる。蓋然性は確からしいかどうかを示すものになるため、社会における決定には使えるが、確実なものを求める哲学的思索においては混乱の原因となる。哲学的領域、哲学的問いと蓋然性のもつあいまいさは苛立ちすら生み出してしまう。瞬間ごとの現象として考えると厳密な意味での証拠は成立し得ない。社会的な領域では、蓋然性の問題が持ち出され、ある程度の確からしさで特に問題は起こらない。
仏教上の死苦(しく)とは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながら、死を迎えることからは逃れられないということを示している。四苦八苦の四苦「生老病死」のひとつである。



これは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながら、死自体が経験として経験し得ないため、哲学的に考えると、「生命としての死ぬ苦しみ」、「死の苦しみ」といったものは矛盾になる。
よって、死を想起する精神の苦しみ、死に対する恐怖や死にたくないという思いから起こる精神の苦しみを意味する。死を想起し、死に恐怖を覚えたところで、何をどうすることもできない中、自己への執著から起こるのが仏教上の死苦(しく)である。

「死苦」死ぬ苦しみ
不足はゼロの概念がもたらす。ゼロは想像上のゼロでしかなく、本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。

ゼロの概念がもたらす不足

このゼロという概念が、記憶の連続性の中での記憶や想像と現実とのギャップを生む。
ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。
これは一種の錯覚と考えることができる。
その錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚
願望の定義と不足。


「願ってその実現を望むこと」というのが一般的な願望の定義となるようだが、比較的ポジティブに「不足に気づくこと」が願望の本質的な定義である。
意識的に「望んでいる」ということは、今現在無いという認定であり、かつ、それが自分の幸福感にとって不足している対象だと考えていることになる。
つまり不足が願望の正体である。


願望とは何だろう!
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