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哲学 philosophy
意識の抵抗と現実の展開はどの視点から観るのが良いのか? 現実を観る目ではない。 内側の会話、つまり内的な会話でもない。 外側でもない、内側でもない、 頭の裏側、やや上にある視点から現実を見る。 目の前の現実も、頭の中の世界も両方を見て、両方を見ずに無視するような そのような視点だ。 ある界隈では「空海」、ある界隈では三つ編みと表現されている視点だ。 第三の目の中心はまっすぐ後ろではなく上向きの後ろの延長にある、 そのような感じである。 五感で感じる今の現実でもなく、 イメージの世界でもない。 今の現実でありながら、今の直接的な現実ではない空間。 それを捉えることだ。
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仏教上の死苦(しく)とは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながら、死を迎えることからは逃れられないということを示している。四苦八苦の四苦「生老病死」のひとつである。



これは、死ぬ苦しみ、死の苦しみでありながら、死自体が経験として経験し得ないため、哲学的に考えると、「生命としての死ぬ苦しみ」、「死の苦しみ」といったものは矛盾になる。
よって、死を想起する精神の苦しみ、死に対する恐怖や死にたくないという思いから起こる精神の苦しみを意味する。死を想起し、死に恐怖を覚えたところで、何をどうすることもできない中、自己への執著から起こるのが仏教上の死苦(しく)である。

「死苦」死ぬ苦しみ
不足はゼロの概念がもたらす。ゼロは想像上のゼロでしかなく、本来ゼロという概念は数学的空間の中にだけあるものである。

ゼロの概念がもたらす不足

このゼロという概念が、記憶の連続性の中での記憶や想像と現実とのギャップを生む。
ゼロという概念は「無」ということを意味するが、本来自分の認識の中には「有」しかなく、空白であるはずのものに対して不足感が起こる。
これは一種の錯覚と考えることができる。
その錯覚により不足を感じることで求不得苦や愛別離苦が起こる。
自我意識、そして記憶によりゼロの錯覚が起こり、不足の判定が起こり、苦を得ることになる。
ゼロの錯覚
自分の内側と対話する実践。知識自体は良いですが、結局「知識の習得」を素晴らしいものとして扱い、それに逃げるということがよく起こってしまいます。人は、変化することへの恐怖から、実践することを避けています。いくら知識を増やしても内なるものと向き合うことを避けていた場合、事態は好転しません。

知識の習得という逃避と内なるものへの実践
吾唯足知・吾唯知足と表現される「知足」を空性から。

空性から捉える「知足」

「足るを知る」ということを考えてみた場合、単に「満足しているということを知る」という感じで、余計な欲を起こさず、満足しなさいと命令されているように感じ、我慢を強いられるように感じる。そして、欲しくないふりしたり足りていると自分を言い聞かすような感じで捉えてしまう。それを回避するには、「欲し、得てから満足する」というプロセス飛ばし、いきなり得た状態になる、つまり充足した状態に移動すればよい。
「ある」と「ない」を抽象化すれば、全てが不確定である。そうした空性から知足を捉えると得た状態への移動、充足への移動が直感として理解できる。

知足と空性と「充足への移動」
アレテー・徳と内発性。

アレテー・徳と内発性

内発的動機づけ等で用いられる内発性。この内発性は「自然と内から湧いてくる」ような力やその方向・性質。内発性は徳の領域になるため、「徳の高さ」というのは「包括している対象の範囲の広さ」になる。
内発性とは、「自然と内から湧いてくる」ような力やその方向、性質のことです。アリストテレス的に言うとニコマコス倫理学におけるアレテー(ἀρετή )、つまり、徳です。内発性と自発性

内発的とは、内部から自然に起こる、つまり外からの働きかけによらずに起こるものを意味し、その性質を持つものは内発性となる。
確実性の度合いの問題である蓋然性(がいぜんせい)とは、「確からしさ」という意味を持つ。「おそらくそうだろう」というような確実性の度合いのことを意味する。

蓋然性(がいぜんぜい)

物事や過去の出来事に関して、それが起こるのかどうかとか、事実であるかどうかという確実性の度合い。可能性は可能かどうかの性質であり、蓋然性は確からしいかどうかを示すものになる。「確実に示そうとしても示しえないので、ある程度確からしければ」という形で、哲学的に決着がつかないようなことでも、社会の中の取り決めで利用されている概念である。

蓋然性とあいまいさ

蓋然性は確実であることを示すものではない。いかに確実らしいかということの尺度であり、社会において示し得ないものを判断する際に出てくる概念である。
実存主義(じつぞんしゅぎ)は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想。本質存在に対する現実存在の優位を説く思想。
「どうする?」というのは思考です。思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎません。なぜどうにかしたいのかというと不快だからです。「苦」と表現してもよいでしょう。
思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。その不快感なり、悲しみなり、辛い感情なりを和らげたいというようなものか、それを和らげるために苦を解消する方法を「知りたい」というのは思考。

思考や感情と私
ルサンチマン(ressentiment)

ルサンチマン(ressentiment)

被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみ、怨恨を内心にため込んでいること。このうえに成り立つのが愛・同情といった奴隷道徳。
ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。
ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。




実存主義の創始者と呼ばれるセーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)により確立された哲学上の概念で フリードリヒ・ニーチェは道徳の系譜(1887年)でこのルサンチマンを明確に使用しだした。ルサンチマンは、怨恨・復讐を意味する語。ニーチェは強者の君主道徳と対比して弱者の奴隷道徳は強者に対するルサンチマンと主張。

通常、ルサンチマンは怨恨や妬みなどの感情的な面で説明されることが多いが、哲学上の概念であるため、単にそうした感情を指すものではなく、怨恨感情の思考上の解決策であり、根底に奴隷道徳が存在するという意味を持つ。
今現在に集中すると起こる現象への解釈。

今現在に集中すると起こる現象への解釈

幅を持った意識の集中ではなく一秒前でも一秒後でもない、今現在に意識を集中していくことで、客観的な時間ではなく、この心が受け取る現象のあり方が見えてくる。
現在過去未来という時間が語られる時、客観的な仮観の世界から解釈が起こっている。しかしながら厳密に捉えた場合、そうした時間の解釈はこの内側でしか起こっていない。
「今に集中する」という場合や「現在に集中する」という場合、第三者から見て確認できない領域で、現象をどう認知しているかということや、この心は受け取る働きのみであるという部分が見えてくる。
サマタでは分離であり同時に分別の機能である自我機能が低下していく。ヴィパッサナーで集中力が上がれば、そのうち普段想起するような雑念や体感は無くなり、生滅の繰り返し、諸行無常や諸法無我が理屈を超えて体感できるようになる。
「今」に集中することと今をスタートとすること

一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である―

深いところにある因果関係は、認識できないような領域にあるのかもしれません。それをもし捉えられたとしても、人に説明するのは難しいはずというか不可能なはず。

命令の証明
物が物として存在するためには時間が必要になります。
すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。時間は一種の解釈です。人間と独立して何か次元として存在するものではありません。これは「客観的に、また社会的に考える」という歪曲された事実解釈を度外視すればすぐにわかります。
信仰、主義等々信念など選択が可能なものにしか過ぎず、朧げで曖昧で執著するようなものではない。宗教の教義、書き換え可能な信念には不完全な論理構造が潜んでいる。「確認できない対象」を推測的に示し、信じるという行為によって排他性を持ちながら混乱を避け、未来に対する不安感を妄想で打ち消すというのが宗教の構造であり、こうした教義が書き換え可能な信念の代表例となっている。

書き換えが可能な信念

様々な証拠を持ち出しても、それすらも確実であると示し得ないという構造を持っているような不可知領域について、信仰というものによって他を排斥しているゆえに仮止めとして成り立っていると言えるだろう。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造
病の時の苦しさであり病になることから逃れられないという苦しみが仏教上の四苦八苦の病苦(びょうく)である。


病の時の苦しさであり病になることから逃れられないという苦しみ
病苦とは、病の時、病気の時の苦しさでありながら、そうした病に冒されることからは逃れられないという意味で「思い通りにはならない」という苦しみを意味する。可能性として病にかかるというものからは逃れられず、いくら病気を嫌おうが完全に逃れることは不可能という意味でドゥッカである。そして病気には苦しさ、痛みが伴う。生命として逃れ得ない苦しみの一つである。経典の中で四苦八苦についてはヴィナヤ・ピタカにあり、病苦について触れられているものとしては、アングッタラ・ニカーヤの健康時における健康の意気(健康のおごり)が有名である。

「病苦」病の苦しみ
自由意志はあるのか?自由意志はないのか?
そのような自由意志論という分野がある。
哲学的に見ると決定論的に自由意志はないという帰結になるが、自由意志がないとすると全ての人の意志決定に責任が無くなり、契約も犯罪の帰責も宙に浮いてしまう。
相容れなさそうな哲学と社会学の両側面から自由意志を考えていくとそうした自由意志論にそれほど意味がないことがわかる。

自由意志はあるのか?自由意志はないのか?

自由意志と哲学的自由意志

自由意志と哲学的自由意志について。
哲学的に考えた場合は、自分の意志は自分以外の情報の塊を発端とする自然発生的な意志にしかすぎない。しかし、社会学において自由意志を捉える時には、「『選択肢が存在していて、その選択に制約がない状態』で選ぶこと自体が自由意志とし、帰責の問題を解決している。

自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

しかしながら、自由意志を語る上で理系の科学者は、無意識の反応に対して意志で抵抗できるかどうかというようなことを自由意志として捉えている。しかしそれは意識と無意識の話であって、根本的に自由意志の分野ではない。

哲学的に検討される自由意志とは、この意志自体が完全に自由であるのかどうかであり、今目の前の選択において意志決定するにあたり、経験から形成されたものすべての影響を一切受けないのかという点である。
そう考えると経験によらない意志の形成はなく、本能レベルであれば、体に組み込まれてものなので、自分が自発的にオリジナルで生み出したものではないということになる。
自由意志にまつわる理系の発想は根本的な定義や抽象度が低いということになる。
木を見て森を見ずとはよく言いますが、それでもまだ森しか見えていないわけですから、日本がどんな形をしているかを確認はしていません。そのようなことです。木から森を見ても、緑と茶色くらいしか見えませんが、世の中には他の多種多様な色彩があります。木を見て森を見ずという言葉をよく使う人は、個人より組織を大事にしろといったようなものを言いたいということがほとんどではないでしょうか。木から森へと視点を変える、鳥瞰図的に世の中を捉えるというのも一つの新しい視点だとは思います。しかしながら、木と言っても葉っぱから幹から、実や根までたくさんあります。それを仔細に見るといったことも忘れてはいけません。新しい眼で見る
涅槃(Nirvana)・涅槃寂静 とは、「悟り」と呼ばれる仏教の目的であり到達地点で、仏教において、煩悩を滅尽して悟りの智慧の完成の境地。

涅槃(Nirvana)・涅槃寂静

涅槃(Nirvana)とは

涅槃(Nirvana)とは、仏教の究極的な実践目的であるが言語で示すことができない。
解脱と同様に表現されるが、どこかに行くわけではない。

涅槃寂静 とは

涅槃寂静とは仏教の最終目標であり、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った「静かな安らぎの境地」である。
涅槃寂静
涅槃寂静とは、悟りの境地としての解脱・ニルバーナ(ニルヴァーナ)であり、一切の煩悩が消え去った静かな安らぎの境地である。仏教の最終目標。ただ言語で示すことはできない。ポジティブな表現をすれば「最高の安穏」であり、煩悩の火が消えた、一切の苦しみのない境地という意味である。
抽象度の高い哲学の主題
哲学の主題は抽象度が高い概念となる。
主題として、存在、因果、真理、本質、同一性、普遍性、観念、概念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、数学的命題、論理、言語、知識、人間一般、理性、自由、意識、精神、自我など。倫理学的には、正義、善悪などがある。
合意のために抽象的なことを具象化する必要が生じる場合があるが、そのために元の意からは外れてしまうことが起こる。そして合意のために、観念がぐらつく。よって、内側の思考においては、合意を除外しつつ理性を保つ必要がある。
曖昧に抽象的なまま語ると妄想に見える。だからこそ語る時は具象化が必要になる。
(具象とは具体。はっきりした姿・形を備えていること)
ただ、具象化すれば意味が変わってしまうことがあり、限定が入る。
その影響で観念自体を変化させないということが重要となる。

合意と具象
願望の定義と不足。


「願ってその実現を望むこと」というのが一般的な願望の定義となるようだが、比較的ポジティブに「不足に気づくこと」が願望の本質的な定義である。
意識的に「望んでいる」ということは、今現在無いという認定であり、かつ、それが自分の幸福感にとって不足している対象だと考えていることになる。
つまり不足が願望の正体である。


願望とは何だろう!
混乱により、より抽象度の高い見解が生まれる。
ある観念や概念を知ると既存の観念や概念のぐらつきから混乱が起こり、それらを統合した視点が生じる。既存の観念に対し、その他の可能性もある程度の正しさがあることに気づくとまずは混乱が起こり、それらの共通項たる視点が生まれる。
そして、より抽象度の高い見解が生まれる。
偏見は不可知領域や二律背反するような命題に対する一解釈にしか過ぎず、自己都合からその他の解釈可能性を感情的に排除しているだけ、という場合がほとんどである。
意識は、不快感から混乱を避けようとするが、こうした混乱は視点の高さを生むものであり、歓迎すべきものである場合が多い。

偏見を解く過程としての混乱
曙光

曙光』(1881年)において、ニーチェは「力の感覚」を強調する。道徳と文化の双方における相対主義とキリスト教批判も完成した。曙光のアフォリズム集でニーチェが求めているのは、自らが特殊な体験を得ることであるかのようにみえる。曙光のアフォリズム 曙光第一書 曙光第二書
ニーチェは、その著書に随所にアフォリズムを用いた巧みな散文的表現が多く、これには文学的価値も認められる。
ここにコップはありますか?というような質問に対して、「イケアのコップがある」「そこに一つだけある」とかいうのは聞かれてもいない属性を勝手にくっつけているだけで純度は低いというようなことは直ぐにわかりますが、世間ではよくあるような光景です。そこで、「あります」というような答えが純度の高いような答えに見えますが、それは物事を純粋に見ているわけではありません。そこで普段は「答え」に対して正解などを定めたりしますが、その答えの手前にどんな理由のもとそういう答えになったのか、というようなことを考えてみましょう。「純粋な精神」の偏見 プラトンとイデア
倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。

風習とは、しかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。

風習の倫理
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