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哲学 philosophy
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動物と人間を対比した時に、人間の傲慢さが出てきますが、動物よりも害のある人間はたくさんいます。露骨に害を与えるような人だけでなく、動物に対して「人間の感情優先」という考え方をも持っている人たちもいます。
しかし、所有・処分権は人と人との関係、他人と自分との関係であり、その生命体と自分たちとの関係ではありません。人間性と道徳 豊かな人間性や社会性。学問は人間性を向上させるためにあると捉える教育。道徳形而上学の基礎づけ。道徳性を備えている限りの人間性は、それのみが尊厳を持つものである。
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相手が動物であれば、結果的に現象として「歯軋り」をしたり「うたた寝」をします。できれば誰か目の前にいるひとつの存在だけでなく、一気にすべての生き物に、というのがいいでしょう。そのようなことで、スッタニパータの蛇の章にある「慈しみ」が、わかりやすいでしょう。

中村 元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫 蛇の章 八
スッタニパータ 蛇の章 「慈しみ」 仏教諸聖典のうちでも、スッタニパータは最も古いもののひとつ。 悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
ルサンチマン(ressentiment)

被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみ、怨恨を内心にため込んでいること。このうえに成り立つのが愛・同情といった奴隷道徳。
ルサンチマン(ressentiment)とは、「弱者による強者に対する怨恨」とするのが一般的です。怨恨の他に憤り、憎悪・非難、単純に僻みという風に説明されたりします。キェルケゴール発端ですが、ニーチェも「道徳の系譜」以降さんざん使う言葉です。ニーチェの場合は、さんざん使うというより、彼としては考えの一種の主軸になっています。
ルサンチマン(ressentiment) 「善」の基礎にある怨恨感情をルサンチマンという。




実存主義の創始者と呼ばれるセーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)により確立された哲学上の概念で フリードリヒ・ニーチェは道徳の系譜(1887年)でこのルサンチマンを明確に使用しだした。ルサンチマンは、怨恨・復讐を意味する語。ニーチェは強者の君主道徳と対比して弱者の奴隷道徳は強者に対するルサンチマンと主張。

通常、ルサンチマンは怨恨や妬みなどの感情的な面で説明されることが多いが、哲学上の概念であるため、単にそうした感情を指すものではなく、怨恨感情の思考上の解決策であり、根底に奴隷道徳が存在するという意味を持つ。
解明解決という視点
問題を解明して解決するということは一般的な手法ですが、ある危険性を孕んでいるということについてはあまり触れられません。問題だとされることが、本当に問題なのか、ということを考えてみればいいでしょう。確かにある側面では問題なのかもしれませんが、それは「ある側面」という相対的尺度を採用したから起こっています。それならば言いたい放題です。正しさは、勝手な基準で勝手に決めていることであり、まさに自前の相対的尺度そのものです。どこにも絶対性はありません。ただの相手のこだわりです。しかしこの相手のこだわりを採用してしまえば、自分が正しくない人になってしまいます。認めなければ問題にもならないことを、自分で問題だと思ってしまいます。これは、わかりやすい例ですが、同じような構図は社会にたくさん溢れています。ある問題と、問題の解決策を提示されると、前提となる問題やそのフィールド自体の属性を無意識に肯定してしまうということです。

解明解決策自体は、確かに誰かの「あるフィールド」での話です。しかし、本当に問題はそこなのか、どんどん問題を単純化していきましょう。相手のフィールドで戦おうとするから、負けを恐れて苦しむという事があるということです。

どうして相手に勝たねばならないのでしょうか。一体何の戦いでしょうか?

それは自尊心獲得ゲームです。

解明解決 意識の分野の解消法 抵抗感の破壊

ドグラ・マグラ(1935年)以外の日本三大奇書は、小栗虫太郎氏による「黒死館殺人事件」(1935年)、中井英夫(塔晶夫)氏による「虚無への供物」。
実存主義(じつぞんしゅぎ)は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想。本質存在に対する現実存在の優位を説く思想。

一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。 道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である―

深いところにある因果関係は、認識できないような領域にあるのかもしれません。それをもし捉えられたとしても、人に説明するのは難しいはずというか不可能なはず。

命令の証明
物が物として存在するためには時間が必要になります。
すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。時間は一種の解釈です。人間と独立して何か次元として存在するものではありません。これは「客観的に、また社会的に考える」という歪曲された事実解釈を度外視すればすぐにわかります。
恐怖心をもたない人々、すなわち、もともといつも明らかに恐ろしいものをもっている人々は、威厳(堂々としていておごそかな様子)と儀式を必要としない。威厳と恐怖心
木を見て森を見ずとはよく言いますが、それでもまだ森しか見えていないわけですから、日本がどんな形をしているかを確認はしていません。そのようなことです。木から森を見ても、緑と茶色くらいしか見えませんが、世の中には他の多種多様な色彩があります。木を見て森を見ずという言葉をよく使う人は、個人より組織を大事にしろといったようなものを言いたいということがほとんどではないでしょうか。木から森へと視点を変える、鳥瞰図的に世の中を捉えるというのも一つの新しい視点だとは思います。しかしながら、木と言っても葉っぱから幹から、実や根までたくさんあります。それを仔細に見るといったことも忘れてはいけません。新しい眼で見る
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